宇宙の産み落とした私生児

とよかわの西洋占星術について考えるブログ。鑑定依頼は件名「鑑定依頼」でこちらへ→astrotoyokawa@gmail.com

ついに、ドッペルゲンガーと出会う

 いままでの人生で忘れがたい印象的な夢を見ることはそうそうなかったが、ユングを本格的に学びだしたとたん、急に心に残る夢をあれこれと見るようになった。なかでも、これこそ私のシャドウだと分かるような人物が出てきたのは、事件に近いような、衝撃的な出来事だった。


 シャドウとはユングの提唱した用語で、ペルソナと対になるもの。自分が深層意識に抑圧している人物像であり、それゆえシャドウを体現する他人と遭遇すると、投影がはたらき、その人物を激しく嫌悪をする。いわば精神的なドッペルゲンガーであり、詳細は以下を参照されたい。
http://rinnsyou.com/archives/300


 私の見た夢はこういうものである。


 ビデオ通話で、ある女性から私に連絡がある。彼女は昔インターネット上で知り合いだった人物である。しかし、会ったことはなく、顔や容貌は全く未知のものである。
 初めて目にした彼女は私と同じくらいか少し年上に見える。美しいが、きわだって美しすぎることはなく、むしろよく自分に手をかけている、という印象だ。
 年かさなのに、けして濃すぎず抑制が効いた薄化粧で、ポイントメイクはほとんどしておらず、唇にも紅をささず本来の色だ。そこからなんとなく自信を感じさせる。肩にかかる豊かな髪の毛は細めのロッドで巻いて、ひたいを出してハーフアップにまとめている。その髪質や髪型がきれいなので、そこに目がいく。裕福な、中流以上の家庭の奥さんという感じで、有名人でいうと君島十和子に少し近い。叶美香をもっともっと地味にした感じともいえる。
 手をかけていることがわかる美しさは、若い女性が何もしなくても若いというだけで称賛される種類のものとは違い、明確な自意識や目的意識がひしひしと感じられる。自分を厳しく点検している身なりは、必然的に、他人にも厳しいだろうということがわかる。往年の女優風に、きつくつり上げて描いたアイブロウも、自分は意志の強い人間だ、ということを明確に打ち出しているように見えた。
 こんな人を敵にまわすのは、恐ろしいだろうし、何よりそんな自分がいやになるだろうが、しかし、逆にもしこの人の歓心を買えて、気に入られたら、どんなにか心が満たされ、安心するだろう、という印象を受ける。
 彼女は、私に何かを問い詰めているみたいだった。内容は分からないが、私がインターネット上に書いた、何かのことについて、あれはどういう意味かと詰問するような感じだ。私は、へびににらまれた蛙みたいになる。そんな必要もないのに、応答している。恐怖を隠して、強気でいる。こんなビデオ通話を突然かけてきて、失礼だから、無視すればいいのに。でも、受けて立たないとしたら、そんな自分はひどくひきょうで不誠実に思える。逃げたいのに、まるで操り人形のように、私はしゃべらされている。
 夢はここで終わった。


 目が覚めてすぐ、あの"君島十和子"は、私のシャドウだ、と気づいた。小ぎれいな身なりをして、自分に手をかけることを怠らない女性は、長年私のもっとも苦手とするタイプで、私はいつも、わきあがる羨望と憎悪に耐えていた。
 長い間私は、明日に自殺してもおかしくない精神状態で、自分にカネや労力をかける価値をとてもじゃないが感じられなかった。それはもしかしたら話が逆で、感じられなかったから、死にたかったのかもしれない。そして、高慢だ、お高くとまっていると思われる恐怖から、みずから安い女になるのがやめられなくて、それゆえ周囲や、異性からの扱いも、それなりだったのだろう。
 私が12歳のときに私をレイプした男が、私に逃げられたあと、周囲にふれまわっていたのが、「あいつは、金がかかる女だ」という嘘八百で、しかし、小中学生時分の子供にむかって、金がかかるってどういうことだろうと、いまでは笑えもするけど、私はそのことに傷ついて、金がかかるということは、殺人にも等しい罪悪なのだと、思い込むようになった。いや、そのような決定的な出来事がなくても、社会による暗黙のカリキュラムで、そう思うにいたったのかもしれない。社会は、彼の言葉を笑い飛ばさず、彼を許容し、野放しにしたのだから。私は20代の頃、10歳以上も年上の彼氏に誕生日プレゼントをもらうとき、これでいいと、プチプラの500円の口紅を選んだことがある。
 自分や、自分の体をかえりみないのが無頼派のようでかっこいいと思い込むようにしていた。
 人から怒られるのが怖いから、自分自身も人にはっきりものを言うべきときに言えないままで、あいまいににごすばかりで、そのせいで状況が悪くなるばかりなんて数えきれないほどあった。なめられたくもないけど、こわい人と思われるのもこわかった。それを見抜かれたから、なめられた。
 自分が甘やかされたいから他人にも甘かった。
 そのような状態から私が立ち直ったのはようやく最近だ。


 ユング心理学占星術の融合である心理占星術によれば、ユングのいうシャドウは、土星がつかさどる。
 私の土星は、蠍サインにある。蠍のおもな象意は、性や、融合、再生、支配。たしかに、あの女性の印象は、蠍っぽかった。敵には容赦なく、毒をもった針でしとめてくるが、味方に対しては義侠心が強く、限りなく愛をそそぐ。そのアメとムチをつかいわけるカリスマ性と支配力で、味方をとりこみ、勢力を拡大させていく。任侠がちょうど、蠍的な原理で結ばれた集団だから、そのようなイメージ。人をおどしつけて思いどおりに動かすなんて、とても恐ろしいことだと感じる。でも敬遠するあまり、自分の中の欲望を封じるあまり、私はそういう人をいままでずっと引き寄せてきたのかもしれない。支配するより、支配される方がラクで、されるがままになっていたのかもしれない。ユング心理学では、抑圧した衝動は、必ず他人に投影されるからだ。
 私に殺された私の土星が、復讐のためにいつも人生にやってきていたのだ。
 その土星は、私の場合、11室にある。友人関係や集団意識をあらわすハウスだ。このような配置のネイタルチャートは、調べると、少数の友人との誠実な付き合いや、友人からの手酷い裏切りが禍根を残すといった意味がある。しかし、もっと踏み込んでかんがえると、ハウスは、抑圧された土星がどこから復讐するかその舞台を示すのではないだろうか。たとえば土星が6室の人は、各種の身体症状によって、みずからの土星の悲鳴に気づくだろう。
 インナースペースにいる、太陽から冥王星までの10個の星は、すべて、抑圧されることに同じように他人に投影されうる。火星を抑圧すれば、火星の化身となる人物が危害を加えてくる。月を抑圧すれば、月の女神があらわれてこちらをいいように支配する。
 自分の人生に登場する人物は、すべてが投影の産物で、10個の天体どれかのうつし身である。これが心理占星術の考え方である。それならば、夢に登場する人物は、ますます全員が、自分自身だろう。
 
 ユング心理学、および心理占星術では、結合、および内部結合という用語がつかわれる。見たくないものとして切り離した要素と向き合い、自分の一部として取り込むことだ。完全性の実現のために、人が必ず目指さなくてはいけないことである。このとき、あるひとつの星だけにふりまわされ支配されるのは、結合ではない。人間は、10の星すべてのエネルギーを過不足なく使ってはじめて完全だからだ。
 たとえば、土星に支配された人が、飢えた獣のように権力を求め、それを行使することだけに夢中になる。あるいは、金星に支配された人が、社交関係のなかにしか自分が存在しない気がして、強迫的に、他人のなかにたえず身をおいて、休む暇もなくずっとおしゃべりをしている。それでは、惑星を使っているのではなく惑星に使われているも同然である。
 つまり、シャドウが示す人物像そのままを体現するのでは、内部結合とはいえない。そうしたら、シャドウにとりつかれてしまっているだけだ。そして不幸にもそんな人間は大勢いる。


 自分が蛇蝎のごとく嫌う人こそ、自分自身なのだ。自分がなりたくてもなれない人物像を体現しているからこそ、激しい嫉妬と劣等感をよびおこすのだから。


 ノー・アスペクトであることで、嵐のなかで糸が切れた凧のように暴れまわる私の土星は、トランジットによって、まったく存在感がなかったり、逆に私を手ひどく痛めつけたりしてきた。ことし2020年、トランジットの土星がみずがめに入り、土星回帰以来はじめて、ダブルチャートで土星どうしがハード・アスペクトになった。いまこそ土星に向き合うときが来たのだとささやかれた気がした。


 さいわい投影は、投影だと喝破するだけで、その幻術を破ることができる。真名を呼べば退治できる妖怪や悪魔の類は世界中に存在して、そのことじたいが、ユングのいう"元型"的な現象だが、投影もまた、それと同じようなものだ。
 それを知らなかった私は、私と仲の良い悪いを問わず、周りの人にインナースペースの惑星たちを投影してばかりで、本当のその人自身がもつ人物像や性格を見てあげることを、もっといえば他人として尊重すること(投影をしないということ以上に、他人を尊重するすべが思いつかない)をできなかった。しかし、もう、私は土星を抑圧するあまり、自分を虐待してくる人物のカリスマに魅入られて、いいなりになり、その人のもつ土星の養分に、すすんで身をやつすことはないだろう。その逆で、融合願望に突き動かされて、他人を思い通りに動かそうと画策することもないだろう。


 すべての星について内部結合を果たすことには、単に投影をしなくなるという以上の利点がある。それはバランスのとれた人格になれるということである。
 10個の星は12のサイン(星座)と対応しており、相互にエネルギーを供給しあっているが、12サインの性質は必ず裏返しの美点と欠点をそなえている。たとえば、おひつじは活発だが自分本位、おうしは堅実だが頑固、といったたぐいのものだ。
これを、バランスをとることで、活発だが周りも慮れる、堅実だが頑固ではなく柔軟性もある、といったふうに、ある性質一辺倒になることを防ぐ。大変にむずかしいことだろうが、そんな人になることができたら、人も物もすべてをありのままに受け止められる、超然とした居ずまいになるだろう。このような、ある星だけに飼われずバランスを実現することこそ、ユングが古代グノーシス教や錬金術から名をとって、永遠に幸せがつづく「聖なる結婚」「内部結婚」と呼んだものにあたると解釈している。本当の意味では、人間は、自分としか結婚できないのだろう。


 私の夢に出てきた、あの恐ろしくも美しい女性は、そういえば、若い頃の母にも似ていた。