宇宙の産み落とした私生児

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【感想・書評】マギー・ハイド著、鏡リュウジ訳「ユングと占星術」を読んだ

 この記事の構成
 1 まえがき
 2 各章の要約
 3 わたしの感想


 1 まえがき 

 青土社刊、新装版「ユング占星術」(マギー・ハイド著、鏡リュウジ訳)の二度目の通読を終えた。原著は1992年、旧版は1999年、この新装版は2013年刊である。
 正直に言って、かなり衝撃的というか、想像を絶することばかりの内容だったし、著者のスタンスや主旨など予備知識のないままだったので、一度読んだだけでは内容をうまく把握できず、ノートを取りながら再読することでやっと飲み込めた。それくらい常識や現実認識を揺るがされる本だった。心理占星術に出会って、人生変わっちゃったな~と思ってたけど、また変わっちゃったかもしれない。
 まずはその私のノートをもとに、本書各章の要約から紹介します。


 2 各章の要約

 1章「魚座の時代」
 ユングによる、春分点歳差運動によるプラトン月の時代精神(ツァイトガイスト)の研究について。本書のテーマはシンクロニシティなのだが、約2000年間の"魚座の時代"の時代精神にも、シンクロニシティが働いていることを指摘。まぁまずは軽いジャブ。

 2章「ユングフロイト、そしてオカルト」
 幼少期よりユングはオカルティズムに密接した環境で育った。
 ユングフロイトの宇宙的結婚、そして離婚。
 ユングの人生の転機となる数々の出来事や出会いはトランジットやプログレッションの象意と一致している。(一致しすぎててなんか怖い。)

 3章「闇の領域」
 アメリカ人女性フランク・ミラーとの文通を通して、ユングは「元型」というアイディアを思いつき、論を固めていく。オカルティズムへの傾倒、"夜の航海"がいよいよ決定的なものに。
 
 4章「ユングは歌うー象徴的態度」
 ある不眠症の少女に、ユングがかつて母から聞かされた子守唄を歌っただけで全快してしまうという出来事に、ユング自身が驚く。
 元型エネルギーは、人をいやす。
 何故なら人は自分よりも大きなもの、元型によって自分以外の何かと結びつけられる。病人はもはや孤独ではなくなる。
 P113「聖なるものとのつながりの感覚は病気ばかりではなく、どんな危機的状況、自己成長の際にでも個人にとって重要である」
 しかしながらホラリー・チャートには、全てのことが意味を持たないために(どうとでも恣意的に解釈することを防ぐために)合理的な枠組みがある。なので解釈の際に種々のルールがある。
 占星術とは、"占い"だろうか。それを否定する占星術師も多い。
 占いの否定はオカルトの否定。
 占星術師はチャート作成時に、予兆を招き入れている。それを知っている占星術師は、占星術が占いであることも知っている。

 5章「心理占星術ー深層の意味を求めて」
 元型と占星学のシンボルはイコールではない。元型が投影されたのが天体シンボルなので、たとえば月=母元型といったように、一対一では対応しない。チャートによっては他の天体でもありうる。
 また、私は、リズ・グリーンの批判をしていると知って興味を持ったのがこの本を買い求めたのがきっかけだったんですが、いよいよそれが始まる。グリーンが著書で取り上げた、典型的なプエル・エステヌス(永遠の少年)タイプのチャートについて。グリーンのリーディングには細やかさが欠けていて、牽強付会の感が強く、きちんと象意を追いかけていないとの批判。チャートから多くのものを切り捨ててしまっている。
 チャートはよく言われるアナロジーである「青写真」「種」ではない。
 伝統的占星術では「外在化」と呼ばれた現象が心理占星学では「投影」となり、大衆に受け入れられた。
 ディーン・ルディアは神智学をベースにして、リズ・グリーンは科学寄り(だから人気が出た?)
 元型=ステレオタイプではない。元型とは生きている心的な力。それを意識して取り扱うことが大事。

 6章「心の地図」
 心理占星学そのものへの批判がつづく。
 ペルソナ、シャドウといったユングのシンボル体系は一対一で照応しない。
 心理占星家によって照応関係に非常にばらつきがあることが一目でわかる表あり。例えば、ある占星家にとってはペルソナ=太陽サインだが、別の占星家にとっては、違う天体である。こんなことがめちゃめちゃ多いので照応すること自体にムリがある。
 チャートのリーディングをユング構造に還元してはいけない!それはチャートがもつ豊かなシンボリズムを切り捨ててしまう。
  出生チャートのみ偏重しすぎな心理占星術の傾向の批判。ホラリーやプログレスももっと考慮すべきである。

 占星家がチャートを”客観的”に見ているというのは幻想である。占術はカオス的、相互作用があり、有機的である。

 チャートのなかで、「人生そのものの断片」としてあらわれた元型の具体例。傘を盗んだと疑いをかけられたある男の話。

 7章「シンクロニシティ共時性
 いよいよ本書の本題、シンクロニシティについて。
 古代のマクロコスムーミクロコスム信仰、ウヌス・ムンドゥス(一なる世界)思想は、占術とかかわりがあるとユングは考えた。
 元型について研究するうちに非常に印象の強い、説明のつかない偶然の一致に次々遭遇したユング
 ユングシンクロニシティを説明するためのカギとなったのが結婚実験(占星術の感受点を統計的に研究しようとしたもの)

 シンクロニシティとは「意味ある偶然の一致」。
 ↓ユングによる分類
 第一のシンクロニシティ→ある心的状態が同時に起こっている(例…友人のことを考えていたら電話がかかってくる)
 第二のシンクロニシティ→幻視のヴィジョンがのちのち共時的とわかる(同時に起こっているが、離れている)
 第三のシンクロニシティ→知覚されたのは未来の出来事(予知夢、予言)

 シンクロニシティには唯一の意味はない。同じシンボルが別の人には別の文脈を持ち別の意味になる。

 ユングによれば「元型が共時的出来事の基盤である」。

 ↓著者ハイドの分類によるシンクロニシティ
 シンクロニシティⅠ→客観的な出来事の相互依存性
 シンクロニシティⅠⅠ→観察者の心の主観的な参与に光を当てる→この場合のみ、ウヌス・ムンドゥスを意識できる。

 《ユングによる結婚実験とは?》
 ちょっと分かりにくいのでイラスト入りでまとめてみました。

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 まるで物質と占術家の間に、秘密の共謀関係があるようだ。ウヌス・ムンドゥスは外部から観察できない。心は客観的に心を観察できないのと同じように。
 
 P225「シンクロニシティ現象は因果的な言葉では語ることができないし、合理的な分析では支持されえない。」
 シンクロニシティは水から揚げられて死んだ魚のようなもので、観察しようと俎上にのせても生きたまま観察できない。

 P230「占星術は、果たして科学(客観的)なのか、あるいは詩(主観的)なのか」

 占星家は観察対象から分離されない。

 8章「実際の占星術ー偶然の一致の解釈」
 著者の知人男性K氏の体験したシンクロニシティの例。
 この体験がK氏の乙女座的欠点が解消されるきっかけになる。(つまり、自己実現に近づく)
 ここでは著者はシンボリズムを解釈しただけで、ユング精神分析はない。ユング的方法論は占星術にいらない。

 9章「天空を引き伸ばす」
 P255「シンクロニシティにおいては人はものごとが一緒に起こることを体験する」それは「グレート・マザー、ワールド・マザーへの回帰願望」「子宮への回帰と類似している」
 ユングはホラリーを軽視しネイタル占星術にこだわって、シンクロニシティの研究がうまくいかなかった。

 例示。著者のもとに持ち込まれた、初心者が作った計算間違いだらけのネイタルチャート。
 しかし、それは彼女自身の問題や精神状態を正確に反映していた! ある意味では正しいチャートだった。
 しかし、間違っているので実際には存在しないチャートである。実際の天空がこのチャートだったことは一度もない。
 どういうことか。つまりチャートとは、よくいわれるように「その時間の性質を持ったもの」ではない。

 P256 シンクロニシティとは何か間違った命名だったのはないか?(なぜなら、時間はあんまり関係ないから)

 例示。ダグラス・ハーディングの著書「頭を空にすること」の、彼が悟りに至った瞬間のチャート。確かに悟りの象意が豊かにひきだせる。そのあとネタばらし。実はこれは悟りの瞬間のチャートではなく、著者ハイド氏の身の回りで起こった、この本をめぐるシンクロニシティが起こった瞬間のチャート。
 そもそもこの「頭を空にすること」の内容の多くは創作で、彼は悟りなどひらいていないという説もある。
 P272「占星術のシンボルが意味をもつために、客観的な時間に沿っている必要はないことは明らかだ」

 10章「秘密の共謀関係」
 もしトランジットが時計のように正確に当たるのなら、占星術はきっと今のような周縁的な立場にはいないだろう。(確かに…)

 ユング的な「無意識の投影」論では到底シンクロニシティを説明できない。例示が2つ。祭りの日の辻占いのエピソード、獅子座ステリウムのクライアントのエピソード。

 P316 「秘密の共謀とは、(自他の)境界の崩壊」

 シンクロニシティの例示。クライアントの太陽・土星アスペクトのシンボリズムについて考えていると、著者ハイド氏の上司が心臓発作を起こして倒れたという連絡が入る。
 太陽は心臓、土星は上司。
 クライアントのチャートのシンボリズムどおりのことが、占星家に起こる驚くべきシンクロニシティ現象。

 11章「占星家の宇宙ー錬金術的イメージ」
 最終章なので本書のまとめ。
 チャート解釈は客観的ではいられない。
 例示3つ。蟹座の火星を持つクライアントのエピソード。占星術への攻撃記事のために科学者識者たちが無作為に選んで載せたチャートが、その状況そのものを言い当てている奇妙な現象。1988年、占星術師のグレアム・トービンが1651年に作られたチャートを研究中、妻に妊娠のきざしがあり、その出来事はチャート通りの象意だった。つまり、1651年のチャートが1988年の出来事を言い当てた!
 自然と霊の出会いが現実を生む。

 メタファーにはそれ自体に価値がある。錬金術のイメージはそれが実質的かつ物質的であるがゆえに、精神分析の概念がけっしてもちえないリアリティを持っている。

 チャートのシンボリズムは占星家とクライアントの両方の努力によって生命を吹き込まれなくてはいけない。
 その際、精神分析用語でいう「転移」「逆転移」が占星術でも起こることに意識的であるべきだ。これはユングも注意していた。

 錬金術の「作業」(オプス)を個性化の過程のアナロジーユングはとらえた。
 彼は「秘密の共謀」との戦いを、無意識の内容を意識へと引き出すための格闘と解釈した。
 占星術錬金術は相似点がある。

 ユングの発見した錬金術の絵巻「哲学者の薔薇園」は、個性化過程あるいは内的結婚、転移を含む分析的人間関係を示している。
 この絵巻に出てくる泉は七つの惑星からなる星の容器である。
 同じく、チャートとは占星家とクライアントにとって、容器である。
 錬金術にとって黄金であるものは、占星術にとっては何なのだろう? それは簡単には言えないが、真実だろうか。
 占星術を通して、人は何か自分自身を超えたもののつながりを実感するのである。
 心と物質が出会ったとき、いかに人が心を動かされるか。
 ユングの患者のエピソードがでてくる。彼女はいわゆるアニムスに取りつかれた状態で、デカルト哲学を信奉する現実主義者だった(つまりオカルティズム否定者だった)。彼女はユングに黄金の神聖甲虫が出てきた夢の話を語る。すると本当に窓に甲虫がやってきて、ユングはそれを取り上げて彼女に見せる。シンクロニシティに驚愕する患者。これが彼女のアニムスで凝り固まった心を動かし、治癒のきっかけになる。シンクロニシティの作用の重要な例。

 シンクロニシティとは、分裂した主観ー客観を繋ぐものである。


 3 私の感想

 占星術師ですら、占いとは統計学である、だから当たるのだとよく言うが、私はそれは真実ではないと思っていた。実際には占いが統計的に実証されたデータもない。統計的に実証しようとしたユングの結婚実験も、上述のように非常に奇妙な結果に終わった。
 それを知っていた私ですら、本書の主題である、占星術は主観でも客観でもなく、その両方である、という主張には激しく宇宙観を揺さぶられた。
 心理占星術、特にリズ・グリーンによるものは、多分に科学の装いをまとっており、だから大衆に受け入れやすかったのだろうし、私も夢中になった。それは科学の計算式のように理詰めで、オカルト・カラーは控えめである。グリーン訳者の鏡リュウジですら、グリーンがごく初期にだけ「アストラル体」といったオカルト用語を著書にちりばめていたが、その後使うのをやめたことを肯定的に持ち上げていたと思う。これは心理占星術批判の本であり、ある意味、占星術のオカルト回帰を訴える本で、私には全く不意の一撃だった。
 初読時に書いた疑問点のメモのブログ記事は混乱しきって全然分かってなくて今から見るとクソウケる。

 著者ハイドは一度ユングを学んだあと、違和感を覚えて離れて、また帰ってきたという人。彼女はユングの功績を認め、ユング思想が占星術の発展に貢献したことも認めながら、しかし、二つを合体させた心理占星術には批判的であり、近代科学のよそおいがない伝統的占星術、オカルティズムへの回帰を主張している。その理由は頷けることも多く、私が心理占星術を知って夢中になっていたからこそこの本を読まないとと思い、神保町まで出向いて買い求めたのは正解だったと感じさせられた。

 宇宙はウヌス・ムンドゥス(一つの世界)で、すべてはひとつなのだから、シンクロニシティが起こる。ひとつである、ということを気づかせるために。世界と自分との繋がりを取り戻させるために。

 最初の印象では、それを怖いと思った。ハイドが言うように、それは子宮回帰的な発想である。なんか、エヴァンゲリオンの映画ですごい巨大になっちゃったグレート・マザーの化身の綾波が、ひとつになりましょうみたいに迫ってくるようなあの怖い感じ。ユングのいうグレート・マザー元型には、全てを呑み込む恐ろしい母(テリブル・マザー)の側面もある。
 それなら私はいつも、宇宙の母に見張られていて、それを思い知らされるために、不意の呼び鈴、不意の電話のように、シンクロニシティといった、因果律では説明できない現象が起こるのだろうか。呼び鈴も電話も苦手なのに。
 私のなかの近代的理性が、すべてはひとつだなんて恐ろしいことだ、と言っている。しかし、唯物論に支配され、目に見えないものの存在を信じず、体も心も世界から切り離されているように、人生にも自分の存在にもなんの意味も無いように思い込んでいる、その現代病といえるような孤独を癒すには、やはり自分は宇宙や大自然の一部である感覚を取り戻すしか無いんじゃないか? って思う。
 驚くべきシンクロニシティ現象に立ち会った人にとって、それは人生の重要な岐路になりえる。本書によるとそうらしい。その人はそれをきっかけに癒しを得たり、内的実現(自己実現)に近づく。宇宙的つながりを感じる機会はたくさんあるが、そのうちのひとつがシンクロニシティ現象ということだろう。

 あと占星術師がチャートに主観的に参与してしまう(しまわざるを得ない)というのも、最初の感想は「怖い!」だった。科学者が物質の成分を解析する感覚でチャートのリーディングをしていれば、気持ち的にラクだろうけど、本当のところ、そうやって客観的な立場ではいられないということだろう。いわれてみればだけど、これは私自身のリーディングの仕事経験のなかでかなり思い当たるフシがあった。

 とはいえ…、「すべてはひとつ」のウヌス・ムンドゥス世界観を推し進めると、目にうつるものがすべて自分と関係のあるように感じる、関係妄想や、統合失調症の世界になってしまう。ハイドは、それを防ぐためにホラリー占星術による合理的で緻密な解釈ルールがあるというようなことを言っているが、私はホラリーには明るくなく、はじめて見るホラリー用語も多かった。次はホラリーを学ぼうと興味がとてもわいた。

 主観と客観の分裂の再結合が本書の大きなテーマだが、私が最近興味を持って少しずつ学んでいる仏教の主客合一と大部分同じもので、それにもちょっとしたシンクロニシティを感じた。

 そして、本書には、以前からの私の実感と一致する部分がたしかにある。それは時間というものの性質についてだ。
 SF小説が好きだったから知っている知識だが、量子力学の研究では、光の速度が時に未来を予知しているようなふるまいをするという。時間が過去→現在→未来と一直線上に進むように思えるのは、たんなる人間の錯覚であり、ただの人間の能力の限界ではないかとかなり前からいわれている。(この発想で書かれた小説に、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」や、小林泰三の「酔歩する男」などがある)
 本書にシンクロニシティ現象の例示として登場した、1651年のチャートが1988年の出来事を言い当てるエピソードは、世界もひとつなら時間もひとつであることを示唆しているように思う。あらゆる出来事は実は同時に起こっており、過去や未来など本当はない。まだ起こっていないことと、すでに起こったことの間に、違いは何もない。
 心理占星術家たちは決定論を否定するために、出生チャートを青写真や種にたとえ、種をどう咲かすかはあなた次第、と説いたが、ハイドはそれを批判している。チャートとはもっと有機的なもので、リテイク(再解釈)によりまったく違う意味を見せる。人の運命はバタフライエフェクト的で、複雑系であり、相互作用的というのが著者の主張らしい。
 しかし本当に世界や時間がひとつならやっぱり決定論は正しく、人の一生はあらかじめ決まってると考えるほうが自然なんじゃないかと思う。そして、だからといって人生に意味はないとは思わない。「あなたの人生の物語」という小説を読んで私がキモだと感じたのは、予知能力を身につけた主人公女性が、将来生まれる自分の娘が若くして事故で死んでしまう運命であると知っても、それでも娘を出産しようと決めたことだ。人はみな、必ず死ぬ。しかし、だからといってニヒリズムに陥る必要はない。生まれてきたこと、生きたことそれ自体に意味が必ずあるからだ。
あなたの人生の物語」の主人公は、ヘプタポットと名づけられた異星人の操る言語を学ぶことで、彼らの時間感覚(過去も未来もすべて一体である)を身につけ、未来を見通す力をもつ。その新しい時間感覚を身につけたらもう以前にはけして戻れない。私もまたこの本を読む前の自分にはもう戻れないなと思った。それくらいの衝撃があった。