宇宙の産み落とした私生児

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自己虐待を乗り越えて、心と体の繋がりを取り戻す

 いつも読んでいただいてありがとうございます。今回は、まとめ的な記事なので、いままでの記事と内容がかぶることが多々あると思いますが、ご寛恕下さい。

 さっそくですが、いままでの繰り返し。
 女性とはこの社会で、他人の世話を焼くために生産されている。男の、子供の、他人の、そして親の。そう定義づけられている事実がある。
 世話焼きマシンであって、人間ではないのだから、当然、女性は自分自身の体から生まれつき疎外されている。それはけして私自身の所有物ではありえない。
 自分の体を奪われている。まるで手塚治虫の漫画「どろろ」のように。体も心も男のための道具であるから、私たちは適切な場面で適切な感情を抱くようにすら、しつけられている。女性の痛みや苦しみは、不定愁訴で片づけられ、気のせいだ、気のもちようだ、もしくは詐病ということにされる。この社会は、電車の吊りだなの位置ひとつにいたるまで、男性を標準として設計されているのだから、疲れやすい、生きづらいのはあたりまえなのに。
 『お前とのセックスはちっとも気持ちよくない、この下手くそ』のひとことが言える女が、どれだけいるだろうか。それの多くは女のせいにされる。私たちのだれもが、気持ちよくない、苦痛と不快だけのセックスに耐えて当たり前だと、喉にナイフを押しつけられておどされている。

 だから、女性が誰でもなく自分自身の面倒を見ることは、立派な反逆行為であり、体制へノーをつきつける意思表示だ。政治活動、反体制運動とは、なにも街中でデモしたり、SNSハッシュタグをつけて発信することだけではない。自分のためだけに料理をつくって食べるだけでもれっきとした反抗だ。

 男女に限らない話になってしまうが、情報化社会が発達しすぎで、若い世代ほど、自意識から身体性が乖離している。肉体など、心に勝手についてきた抱き合わせのわずわらしい付属物にすぎず、できることなら幽霊みたいに精神体だけで生きていけたらそれが一番いい。あるSFファンの会合で、「身体性と精神性の分離は可能だろうか」というアンケートがとられた結果、世代が若くなるほど、YESの割合が増えていったという話を聞いたことがある。さもありなんって感じがある。
 そしてもうひとつ、日本は国民皆保険で、病院代や薬代がとても安い。風邪やちょっとしたできものくらいで気軽に病院に行く人も珍しくないというかほとんど多数派で、体調を崩したら病院に行けばいい、薬さえ飲めばいいという感覚も手伝って、セルフケアや予防がおざなりになっている。

 私はしばしば力を入れても手足が動かなくなった。「動け、動け!」と念じる。しかし出来ず、ベッドから起き上がれない。トイレにも行けない。精神科医には、「操り糸の切れたマリオネットのような状態」とたとえて説明した。心と体がちぐはぐで、繋がりを失った末にそうなってしまった。

【食べる】
 自己疎外でうしなった自尊心を回復しようとしたとき、私はまずセルフケアを食生活を変えることからはじめた。私は食べるものにコストをかけても、食べ物って服や本や雑貨のように残るものではなく煙のように消えてしまうものだから、意味がないことだ、無駄なことだ、できるだけ安くおさえるべきだと考えていた。うーん、蠍サインばっかり片寄って使って、バカだね。消えてないよ、いまここにあって、捨てることも譲ることもできず一生ついてまわる私の体こそが、食べ物でできてるのだから。
 清水義範の短編小説に、このような話がある。「最近つかれぎみだから栄養とらなきゃ」この場合、栄養とは具体的に何をさすのだろうか?その答えには世代差がある、ということを論じたものだ。
 たとえば戦後を知っている世代なら「肉、特に牛肉、ビフテキ」。ごちそうの象徴でもあった。世代が下ると、「野菜」、特に「ビタミン」(80年代にポーリング博士がメガビタミン療法というのを提唱して、ビタミンブームのようなものが起こった)あるいは、「βカロテン」だったりして、要するに時代の流行や趨勢、研究の進み具合で、異なる。いまなら間違いなく「タンパク質」だろう。炭水化物に比べてタンパク質は高価であり、特に貧困の進む若者層ほどタンパク質が不足し、炭水化物依存が激しいらしい。ある調査では、現在の若者の栄養状態は、なんと戦後すぐの食べ物がない時代に匹敵するほど貧しいとリポートされている。そう考えると、「肉、牛肉、ビフテキ」って、要するにタンパク質のことで、時代が一周して、戦後の時代に戻ったととらえると、なんだか恐ろしい。
 一日のタンパク質の推奨摂取量は、体重×0.8グラムといわれている。つまり体重50キロなら、40グラム。タンパク質を優先して摂取するべきなのは、科学的根拠もあって、幸福感をもたらす脳内物質のセロトニンのもとになる。体の組織をつくるだけでなく、へこみやすくネガティブになりやすい、あるいはイライラしやすい状態も治してくれるというわけだ。セロトニンは分解されるとさらに、快眠を誘うメラトニンとなる。
 ダイエットといえばよく、糖質制限、糖質断ち、という人が多い。だけど私はダイエットにあたり、糖質を制限するというより、まずタンパク質を優先に摂りつつ、一日の摂取カロリー内におさえる、ということをしたので、特に糖質は制限していない。しかし糖質は高カロリーで低タンパクだから、必然的に多くは食べることができない。
 タンパク質を充分摂って、やっとごほうび的に、残りカロリー枠内におさまるように糖質をとる。結果的に少なめにはなる。タンパク質を多くとると便秘になりやすいし食物繊維もとるためにサラダもつけて、ついでに脂質もないと肌が乾燥するしドレッシングのかわりにオリーブオイルにする。気がつくと結局、何かだけを食べたり、何かを断つのではなく、バランスよく食べている。
 栄養といえば何か? ダイエット方法で有効なのは? そこには、はやりすたりがある。でもいつも変わらないのはけっきょく、摂取の比率を意識してバランスよくが一番だ、ということになる……恐ろしく退屈で陳腐で、私たちを失望させる結論ではあるのだけど。
 私は特に料理がうまいわけじゃないけど自分の料理ってなんておいしいんだろう、こんなにうまいものこの世にねぇよと思う。自分の舌の好みにだけ特化して作っているんだから当然だ。女性の場合料理のスキルって嫁入り修行のひとつってことにされてる。だからこそ、自分のためにメシ作って、自分だけで食う、ああおいしいおいしい、こんなに甘美な復讐はない。

【あたためる】
 これも、前項に共通するものがある。食べ物は、胃という体のストーブのような場所で、体をあたためるからだ。
 射手のアセンダント生まれらしく、私ははだしが大好きで粗暴な野生児だった。子供の頃、はだしのまま外に飛び出して、でこぼこの砂利道の上を歩いていたのを見て、母はびっくり仰天していた。
 そんな私は、はだし生活で冷えた足は母の足にくっつけてあたためていた。長じるとそれは彼氏になった。靴下やタイツのまとわりつく感覚がなんだか苦しく感じて、家に帰ってきたらまっさきに脱いで、冬でもはだし。そしていま、ひとりぼっちの中年になって、だれもあたためてくれないのに、代謝ばかり低下して、ますます冷える。観念して靴下をはいた。落ち着かないし、アトピーがあるのであたたまるとかゆい気がする。でも、体が冷えていると代謝が落ちて痩せにくいし、免疫力まで落ちて風邪をひきやすく、悪いことしかない。冬はお湯をいれたら10時間はもつ湯たんぽも併用した。自分は低用量ピルを飲んでいても月経痛や排卵痛が改善しなかったが、充分気をつけたせいか服用を停止してもほとんど痛まなくなった。
 いまだにやっぱり肌に布が密着する感覚はあまり好きじゃなく、たとえ冬でも帰宅したらまずやることは全裸になること、という習慣は変わっていない。しかし末端、特に足さえあたためていれば肌を出していてもなんとなく全身ポカポカとしてくる。冬の東京は、室内でもとても寒い。朝方などは殊更そうだ。でも耐えがたいほどまでにはならず、今年の冬はぜんぜん暖房をつけなかった。風邪も、ひきやすい体質と思っていたけど、今年はひいておらずその気配もない。
 冷たい飲み物はいっきに体温を下げてしまうらしく、夏の暑く汗をだらだらにかいた日でも、なるべくいっき飲みしないで、ちびちびとやる。できれば家では、氷をいれない水道水や、時間をおいて常温に戻したお茶。最近は、たまにキンキンに冷えた飲み物を飲むとなんとなく具合が悪いのでもうやめようと思う。マツコ・デラックスが、「常温水を飲んでいる女は全員ブス」と言っていた。私たちはこのように、女の分際で他人ではなく自分を気づかってケアする不届きな女が、男たちからどのように罰されるか、骨身にしみて知っている。

【動く】
 踊るのが好きだった。クラブハウスや盆踊り。でも同時に絶望していた。私は双極性障害(旧名は躁うつ病)という病名をかつてもらっていたが、元気なときとそうでないときが激しく、朝までクラブで踊れる日もあれば、何週間もふせって寝たきり、トイレに起き上がるのも大変、という病状を示していた。人は二週間も寝たきりになっていれば、全身のほとんどの筋肉が落ちてしまうらしい。ダンスというのは高度な振り付けになればなるほど、ある程度以上、筋肉が必要になる。私が憧れているようなキレのあるダンスは一生むりだなと思っていた。なにしろ、この病気は一生なおらないというのが常識だったからだ。
 治ってみて、振りかえってみて初めて言えるのは、何もみんなから称賛されるような振り付けをする必要はなく、ただ、心が踊っているから体で踊る、体で踊れば心も踊るといったシンプルなことが一番大事で、素晴らしいことで、それがすべてではないかと思う。恥ずかしがりやで思いきり踊れない人が多いといわれる国で、人前で踊るのに抵抗が無いというだけで才能で、もうそれ以上望む必要なんかないのでは? しいて、あの頃の私に言葉をかけられるとしたら、筋肉をつけるよりはまず体をやわらかくした方がいいと言いたい。筋肉はすぐ落ちるけど柔軟性はそこまで急激に落ちないし、ケガもしにくくなる。そして、猫背は呼吸が浅くなって、息が上がりやすくなるので、絶対にダメ。

 体を動かすこと自体に苦手意識があり、おっくうだとか楽しくない、という人はたくさんいる。いざ運動不足で調子が悪くなったとき、いやいや体を動かすのはなお気が向かず苦痛だろう。町内会の盆踊りだけでも、長時間真剣に踊ると汗がダラダラと出てきて気持ちいいから、まずやってみてはといいたいところだけど、コロナで軒並み中止で、街から踊れる場が消えている。
 ダンスの種類によるが、だいたいの人は、火星を使って踊る。女性は火星のエネルギーを抑圧されているから、スポーツとならんで火星の解放をうながすことのできる貴重なツールだと思うのに、残念だ。

【さわる、使う、着る】
 定価たった千円ほどの子供向けの万年筆を使っている。もっと高くてちゃんとしたものを使えばもっと快適なんだろうけど、それでもいくら手書きで長い文を書いてもまったく手が疲れなくなった。たまに普通のボールペンを使うと、すぐに手首が痛くなってびっくりする。
 自分ひとりさえ我慢すればゼロ円、ノーコスト、これがいままでの自分の考え方だった。我慢は無料、金とちがって減るもんじゃないと思っていた。でもそれは大きなまちがいだった。どんな小さいストレスでも、蓄積すれば、それは体と心を蝕む。自分をぞんざいに扱う習慣をなおす薬は存在しない。それはどんな大金を払っても、治療できない。何億円でもだ。
 貧乏なのだから、道具にこだわることなどムリだと思い込んでいた。特に万年筆なんか、いいものは何万、何十万円とするのを知っているから、とても手が出ないと。でもこだわるといっても、急に最高級のものを持たなくてもよく、そこは自分の収入と相談で、現実的に折り合いのつくラインを探せばいいだけ、っていうか誰もがそうしてる。オールオアナッシング思考でなくてもいい。
 いつもお金がなかったし、今でもそうだけど、考えてみれば無駄遣いが多かった。安いから、という理由だけでカゴに入れた服や、同じく安いけどすぐ壊れる加湿器などちょっとした品物など。あした自殺するかもわからない、未来の見えない私は、高いけど価値があって長持ちするアイテムは私を拒絶している気がしていた。そういうものの世界に入っていけない、入ってはいけない気がしていた。でも、大切なことだった。
 歩くのが好きな私は先日初めてNIKEエアマックス90を買った。それまではいていた2000円のスニーカーはすぐウレタンの底が割れて捨てた。いまだに、自分がこんな高いものをいいのかとドキドキする。でも使ってみると、安物を買ったときみたいな罪悪感や後悔はまったくない。姿勢や歩き方も靴も悪くて足首が痛んでいるのに、我慢して歩いていた昔の私。我慢は毒、って慣用句がそういえばある。ことわざってなんかすごい。洋服も同じく、質がよくて長持ちして、ついでに肌にふれたときの感覚が心地いい素材のを選ぶようになった。普通に買うと高くても、古着屋さんやフリマアプリを駆使すると、質が悪い新品を買うより安くつく。品質のよい服の選び方は、「シンプルなクローゼットが地球を救う: ファッション革命実践ガイド」(エリザベス・L・クライン著、春秋社)という本がわかりやすかった。
 料理などで、使いたいものが無い無いって探す時間、パッと手に取れず不便な時間はほんのわずかで、収納場所を決めたり整理整頓をする手間のほうが大きいようについつい感じる。でもほんのちょっと便利なだけで、ほんのちょっと快適なだけで、気持ちがよくて楽しくなる。生活って、自分を大切にするって、本当に気が遠くなるほど地道なコツコツとしたことの積み重ねだ。積み重ねができなくて、どうにもならなくなっても、病院にいって治してもらうことはできない。自尊心を金で買うことはできない。でも、誰でも、自分しだいで小さなことから建て直していける。変わりたいと思う心ひとつだけがあればいい。

【嗅ぐ】
 嗅覚はいちばん原始的な感覚といわれている。でもいまどきの若い人ほど、「いい匂い」はダサいと感じているらしい。コロナ禍でみんなマスクだと、ますます香水などもつけなくなるだろう。
 私は、たとえ香水やアロマオイルだけでなくても、なにかお気に入りの匂いを見つけて、リラックスモードに入れるだけでいいと思う。それはたとえばだし汁の香りや、玉ねぎを炒めるときの匂い、干した布団の匂いでもいいと思う。プルーストのいうように匂いと記憶は密接に結びついている。幸せなときの匂いを覚えておいたり、リラックスしたいときに特定のにおいを嗅ぐことで、気持ちを切り替えるきっかけにできる。
 鼻を大事にすることだ。ないがしろにしていい五感は、何ひとつとして無い。人間は視覚が先行しすぎている生き物だから、目に見えないものを感じとる能力がおざなりになっている。

【まとめ】

 新型コロナウィルスは、特定のだれかやどこかの国の陰謀の産物とはまったく思わない。しいて言うなら宇宙の意志だろうけど、森羅万象全てのことが宇宙の意志なので、あえて言うまでもないことだ。
 なんであれ私たちがもしも教訓なりメッセージなりを受け取ろうとするなら、それは、人間は自分の手でしか自分を守れない、ということだろう。基礎疾患のある人、免疫力の弱い人、持病のある人、喫煙者などは、感染ないし重症化しやすいというデータが出てきているけど、そこにあるのは、ごく普遍的な結論だろう。つまり、自分で自分の面倒を見れる人がどんな環境にあっても一番強いということだ。
 健康を人だのみ、薬だのみにしないって、克己心も必要だし、言葉にするほど簡単ではない。生まれつき自己疎外を強いられている、女性という性別なら特にだ。
 でも、みんないつか気づく日が来る。遅かれ早かれ、そのときがやってくる。だれもがこの虐待の街から出ていき、ゆくえも決めず、二本の脚で歩いていく日が必ず来る。その日私たちは、自分の体を取り戻しに行く長い旅に出る。