宇宙の産み落とした私生児

とよかわの西洋占星術について考えるブログ。鑑定依頼は件名「鑑定依頼」でこちらへ→astrotoyokawa@gmail.com

生きるとは汚れることだ…物理的に

 10代の私が部屋を片付けようと、意を決して使わなくなった雑貨を黒いゴミ袋に放り込んでまとめると、次の日、母が怒っている。
「さっちゃん、ひどい。ママのもの勝手に捨てるなんて」
 買い物好きの母が買った、家具から小さなファンシー雑貨までさまざまなものが私の部屋に放り込まれ、存在すら忘れているくせに、処分しようとするとゴミ袋をあさられる。なぜ気づくのか、いつも中をチェックしていたのか。とにかく、あくまで貸しているだけということになっているらしく、勝手に片付けることは許されない。
 母が買ったもので部屋が埋め尽くされていたのは、ひとり暮らしをはじめてからも、しばらく続いた。母が気に入って買ったアンティークの机や高価でバカデカいデザイナーズ家具。彼女の買い物欲を満たすためだけに買われた、私の好みではない大量のレトルトや缶詰、カップ麺が届きつづけた。
 実家では母は脱ぎ捨てた服を椅子やソファに高々と積み上げ、来客のときはストールをかぶせて隠し、食卓の半分はモノで埋まって使えなかった。

 私も彼女と同じく掃除と片付けの重要性を理解しなかった。それどころか、腹を立ててさえいた。やっとの思いで部屋を片付ける。でもすぐに散らかる。どうして永遠に続いてくれないのか。一度で済まないのか。物理的なことでも、精神的なことでも、日々変化していくもの、流転するもの、せざるをえない物事が嫌いだったり、恐ろしかった気がする。世界が隠しているたったひとつの真実のように、永遠不変のものばかり求めていた。

 小学生のとき、男子に
「お前が通ると、アトピーの粉が舞う」
と言われた。しっしんが治りかけたときに覆う白い鱗屑(りんせつ)のことだ。それが雪のように部屋にも私自身にも降りつもることのほうが、かゆみやしっしん自体よりつらかったかもしれない。アレルゲンが増える季節になると、頭皮にもしっしんができる。頭にフケついてるよ。予備校でとなりの男子にそう言われて、私は二度と出席することはなかった。

 母はからっぽの心を買い物で埋める典型的な買い物依存症だった。

 なにかを買う。あるいは、居酒屋で金を腹ってお酒を飲む。買い食いをする。映画館に入る。ギャンブルに使う。そういったことはお金を払って即座に快感がやってくる。でも、生活を維持する、生活や自分自身をメンテナンスするためにお金を使うのは、速効性の快感ではないから、刹那的に生きているとどうしてもコストを回せなくなる。
 生活の維持とは、積み重ねだが、ある種の人間は積み重ねるということができない。歯みがきをさぼるという目先の誘惑に飛びついて、歯を失ったりする。信頼を積み重ねた結果のメリットを待てず、約束をやぶったり人を裏切ったり、金をちょろまかしたりする。すぐ拭けばなんてことない汚れを放置して、大がかりな掃除が必要な事態を招く。

 筒井康隆の、テレパスの少女七瀬が主人公の初期シリーズに、「澱の呪縛」という短編がある。家屋全体が非常に不潔な家庭に住み込みで働くことになった七瀬が、一念発起して掃除をはじめる。家族は、あからさまに七瀬に敵意を向けはじめ、やがては彼女を追い出し、家はふたたび不潔の神殿へともどる。彼らにとっては、自分らの排出したゴミの不潔さが絆であり、外界からの結界のようなものだった。

 ゴミ屋敷のような一軒家のなかで自分だけが部屋を片付けたいと行動した私からも、母は裏切りと拒絶のにおいを感じたのだろう。
 片付けるというのは、境界線をひくことだ。いるものといらないもの。すぐ使うものとそうでないもの。母は私がへその緒を切ろうとしていることに勘づいたのだ。
 原初の海、母なる混沌の海は、すべてがひとつなのだから、そりゃミソもクソもいっしょだったろう。

 服にも頭にも家具家電にもすぐりんせつが降りつもる。心ない言葉しか言われたことしかない。これでは自分だけがひと一倍手間を課されているようで、そうじ嫌いに拍車がかかった。しかもその手間はだれにもかえりみられることがない。私のせいで招いた事態でもない。なのに、人より大変な思いをしても当然と思われてる…どころか、人より大変ということすらだれも知らない!理不尽に過ぎる。ムカつく。私がいったい何をしたというのか?! 何かの罰で、こんな重荷を背負わされたのか。
 りんせつ、これすら無かったら人生はずいぶん違っていただろうと、何十回も何百回も考えた。
 私は何に対しても、こまやかなメンテナンスなんてしたくないんだよ。だって、それが本来一番必要なのは、この私の心自体なんだよ!すぐ汚れるものなんていらない。壊れないものだけ欲しい。絶対の愛とか、宇宙の定理とか、そういうものだけに価値があるのだ。

 生きているからには日々老廃物だの何だのを排出してるのは分かるけどそれにしても人間の体って手がかかりすぎという気がする。夜寝る前に歯みがきをして、朝起きたらまたしなきゃいけないとか、ゲームだったらこんなんバグや。それどころか寝る前に顔を洗ったりシャワー浴びて、起きてからまた同じことをする人もいる。バグや。

 自分でも信じられないことだが、引っ越してきてから、かれこれ、ほぼ毎日そうじをしてる。すると、驚くことがある。毎日かけているのに、クイックルワイパーはけっこう汚れる。毎日、灰色になる。ほこりの大部分は人間のはがれおちた皮膚だ。毎日、こんなに新陳代謝が行われているのか。ほとんど私が立ち寄らないようなエリアさえ、クイックルをクイクイとかけたら、しっかりと汚れる。
 働きながらこれは無理だなと感じる。高度成長期の、モーレツ社員のだんなさんが専業主婦の妻に家の中のなかをすべてやらせる、というワークライフスタイルがいまだにダラダラ続き、その結果、女だけが賃労働と無賃労働両方をやっていて日本女性は世界で一番睡眠時間が短くなっている。

 人間の細胞は約3ヶ月ですべていれかわるらしい、という話をはじめて知ったときは、なんだか不気味に思った。そんなたえず変化する不確かでぐにゃぐにゃで脆弱な入れ物のなかで、自分という人間の連続性が保たれているなんて、いかにも恐ろしい話だった。

 夜が明けて日がのぼる、夏が過ぎて秋が来る。

 あるとき、冬の間雪が降り積もりはげていた枝が、春になって葉をつけ、その葉の色がだんだん濃くなっていくということに気づいたことがある。
 私はもう中年になっていた。
 木というのはそれを毎年繰り返しているらしい。

 春に花が咲いて嬉しいのは、退屈な日々に変化をくれるからだろうか。それともそれが、毎年必ず約束されているサイクルによるものだからだろうか。

 習慣の力というのはすごいらしい。そうじや片付けを習慣にしたら、しないほうが気持ち悪くなるようだ。いま私もそれを感じている。儀式のようになっている。毎日の習慣。春になると咲く花も、咲く理由を聞いてみたら、習慣になってるから咲かんと落ち着かないから、なのかもしれない。

 札幌に住んでいた頃、私は地獄の底の底で這っていて、そのうえ、ガスコンロの火がつかなくなった。
 母と同じで私もコンロのそうじをしたことなかった。積もりに積もった汚れがガチガチに固まって、安全装置がおかしくなって、点火の位置でつまみを手でおさえてないと火がすぐに消えた。
 私はガスコンロの上にカセットコンロをのせてラーメンをゆでていた。
 いま、こまめにキッチンをそうじしていると、こうやってこまめにささっとやっていたほうが、はるかにラクで、かえって手間もかからない、めんどうなことにもならないし、気分もすっきりして、快適だということに気づく。
 料理をしていると、ゆで時間や煮込み時間とか空き時間がちょっと発生するけど、その最中にシンクだのなんだのは手早くパッパとそうじするとがんこなこびりつき汚れには発展しない。
 この自分がこまめにキッチンをそうじするとか……。
 まるで生まれ変わったようだ。
 前世も来世も存在しない、証明されていないからだという人がいる。でも私は一生のあいだにこうやって生まれ変わって来世を生きている。死ぬまでにもう一回二回は生まれ変わりをひかえてるような予感がある。
 代謝し、排出し、毎分毎秒汚れているから私は死んでよみがえって新しい自分になれた。

 部屋の汚さのせいでずいぶん損も不便もしてきた。なかなかものが見つからず、さがしものをしている時間がとても長い。見つからずにしょうがなくもう一回買う。買ったことを忘れて同じものを買ってしまう。なくしたままついに引っ越しまで見つからなかったもの。見つかったはいいものの汚れてしまって使えなくなったもの。お金と時間をどぶに捨ててきた。自分のことがどうでもよかったから、自分の快適さに真剣に向き合わなかった。快適に生きてはいけない気すらしていた。探しても探しても見つからない。そして自己嫌悪の澱の海に沈む。

 宇宙にとっては私やほかの人間すべてが、3ヶ月たったら死んではがれおちていく細胞のようなものなのだろう。
 たえず新陳代謝で、人が生まれては死んでいき、ひとりひとりは意味も理由もわからないまま宇宙というひとつの肉体を構成して支え、働いている。細胞そのものは、自分の役目を知らないのと同じだ。自分が細胞ということすら知らないだろう。

 私から落ちていく白い雪のようなりんせつは私自身だった。

 親たちはまだゴミ屋敷のなかで暮らしている。田舎の年よりはだれでも同じだ。
 彼らは、物は大事に使おう、捨てるのはもったいないと幼少期からきびしくしつけられたのに、大量生産大量消費の時代が到来してしまった。整理整頓の大切さも知らない。
 まだ使えるものを捨てるなんてとんでもないという罪悪感をかかえたまま新しいものを次々買っている。
 捨てることに罪悪感があるので、いらないものは娘に送る。安かったから、といって最初からいらないものを買って、プレゼントということにしたりする。お金はパワーなので、パワーを振るう快楽があれば何を買うかなんてどうでもよかったりする。
 母はクイックルワイパーのシートをすぐ捨てるのはもったいないと、ビッシリと大量の髪の毛とゴミのこびりついたシートを装着したまま、一ヶ月もとりかえていなかった。捨てようとしたらおそらく、もったいないと叱り飛ばされていただろう。澱の呪縛。

 買い物をするとき、それが生活に必要だからというより、買えば、憧れの素敵な自分になれる気がするから買う、ということがとても多かった。
 これをもっている自分はいまの自分と違って、雑誌のなかでほほえんでいる芸能人のように素敵になれるだろう、同じようになれるだろうという淡い幻想を買っていた。
 本当に必要なものだけ買っていますか、必要ないものまで買ってしまってますか。
 医者に聞かれてもよく分からなかった。それらはすべてが私に必要で狂おしいほど切実だった。いけてて素敵な自分になること以外に人生に必要なことなど無いと思っていた。
 服もバッグもフランフランの置き物も、もちろん、買っただけで憧れの人になんてなれなかった。
 海水を飲んでいるように買えば買うほど私ののどは渇いていった。

 生活を維持するというのは大変な仕事だ。男性は、一生、生活をしたことがないまま死ぬ人も多いだろう。
 午後から雨の予報だから午前中にせんたく物は干す。青じそやみょうがはめんつゆにつけて保存する。こっちのスーパーの何曜日には肉が安く、あっちのスーパーは野菜が安い、冷凍食品三割引の日は何日だ。押し入れやクローゼットの収納ボックスはキャスターがついてると便利だ。この種類の汚れにはこの洗剤だ。ゴミの分別方法。電気代の支払い期日。そういうものすべてで生活は成り立っている。

 輪廻転生があるとすればの話だが、3ヶ月に1回別人に変身する人間の新陳代謝そのものが、その予期、予行演習であり、メタファーだという気がする。
 はげた木が葉っぱをつける。
 雨が海となって水蒸気になってのぼっていってまた雨になる。
 原子は質量保存の法則により消えることも増えることもなくただ結合式を変えるだけである。
 世界でただ人間の生だけが一回きりなのだろうか。