宇宙の産み落とした私生児

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どうして、母は私のオナニーを見張ったか

 月/冥王星アスペクトを持っている女性の多くと同じで、私も母親と心理的に融解した関係が長く続き、長年、苦しみ続けた。

 両親と兄がひとりの一軒家のなかで、私は一家の精神的下女だった。思い返すと、大人がいなくて、こどもが4人だけの、異様だが珍しくもない家族だった。
 大人になりきれてないのに子を持った人間に典型的な行動なのが、子が幼いうちは熱心にかまって、友達同士みたいに遊ぶ。おもちゃも服も買い与える。それは彼ら自身の満たされなかった子供時代のやりなおしを子供を使ってかなえているようなものだ。子が大きくなって思春期にさしかかり、進路に迷ったり、大人としての助言が必要になると、急に放任主義、ネグレクトになる。親といっても精神的に子供のままだから、大人として指導も助言もできないし、責任も取りたくない。成長した子はもはやミニサイズ版の自分やアバターではなくなる。おじけづいて、「何でも好きなようにしなさい」で終わり。
 私は小学生のとき、欲しいと言ったわけでもないのに父に立派なYAMAHAのキーボードを突然買いあたえられたことがある。しかし本当に与えられるだけで、ただ習い事は一切させてもらえなかったので、いつまでもたどたどしく片手で弾くしかできなかった。子供は遊ぶのが仕事というのが、教育方針だったので、そういうふうになってたんだが、それは父自身がただ子供の頃もっと遊びたかったことの単純な投影だったんだろう。

 母は私を怒鳴りつけてまで来る日も来る日も皿洗いと米研ぎをさせた。

 女性というのはほぼ全ての人間がそのままではなんの権力も持っていないが、ひとつ例外があるのは子を持ったときで、母親になると生まれてはじめてわが子という「自分より身分が下」の人間がこの世に出現する。多くの場合、彼女はいままでの人生で目上の人間から受けた扱いそのままの態度で子に接する。「毒親」「毒母」という言葉がブームになった。しかし、「毒母」たちは個人的に性格がおかしいのではなく、男女の権力構造の歪みが生み出した存在であるという視点は、忘れてはならないだろう。
 私の母の母もまたひどく支配的な人だったようで、私はその愚痴を累計で、300時間くらい聞かされた。
 関係ないが、子供の頃から親に愚痴聞きケアラーにさせられた人って愚痴を聞くのがうまくなりすぎて、愚痴タゲられ慣れみたいな状態になって気づいたらどこにいってもすぐに愚痴聞き人形になってるってこと、あるあるだと思う。

 子供の頃、私はかわいいファンシーグッズが普通よりあまり好きではないような気がして、悩んでいた。なぜ、好きではない気がしたのか。それは、私より母の方がそういうものが好きで、欲を満たすためにたびたび私に憑依していたからだと思う。
「ねえさっちゃん、これ欲しい?」
 サンリオショップの前で、母が私に聞く。
 その後のフローチャートはこんな感じである。

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 まるで親子関係が、逆転してるし、母が欲しいから買ってるのに、私自身の気持ちのように言わせている。
 自意識の融解ぶりが端的にあらわれている。

 人の発達段階として、①生まれたばかりは誰しも自分=母=世界であり、母に守られて一体化して安心・安全感を得ている。②しかし、自律性を獲得していくにつれて、自分と母は別人であると知り、心理的に分離していく。
 といわれている。
 だけどこういうように、子の側が母を自分の子宮のなかに招き入れ、栄養を送らなければいけない状況に追い込まれると、まず①の段階からつまづく。守ってくれる者も、包んでくれる者もいない、逆にこちらが包まなくてはいけない。
 こういう人は長じて、オール・オア・ナッシングの極端で濃密な人間関係を人に要求しがちで、母のように自分の全てを受け入れてくれなくては他人に意味などないと考えがちだ。
 この世に安全な場所はどこにもない、精神的に帰る家もふるさともない、愛してくれる人が誰もいない絶対の孤独に心をビリビリに裂かれている、というマイナスからのスタートなのだから。

 私と同じく母も、愛してくれる者も安全な場所もない、世界となんの繋がりもない、あまりに孤独な、宇宙の産み落とした私生児だった。
 
 行方を告げずに引っ越しをして、私の方から縁を切ることでしか、逃げることができなかった。でも、せっかく切れたのに、そのあともずっとひとつの疑問が頭から離れなかった。それはなぜ、思春期のあのとき、母は私がオナニーしないかどうか、執拗に見張ってきたのか、というものだ。
 私が寝る前にそれをやってることを親が感づいたのを私は感づき、罪悪感で自殺したくなり、何十回も悪夢を見た。だいたいが家族全員の前でその罪状で責められるといった夢だった。
 言葉には出さなかった。でも、母はノックや予告なしに風呂に入ってきた。
 ゆかげんどう、みたいなやくたいも無い用件で。夜、部屋の電気を消して寝ようとすると母が入ってくることがしばらく続いた。
 大人になってから、ひとり暮らしをはじめても悪夢は続いた。
 あの監視行動は立派な性的虐待だったと気づいた頃から、悪夢を見ることはなくなった。

 中学のときだったろうか、酔った父に胸をさわられたあと、悩み抜いたすえにだいぶたって母にそのことを打ち明けたら、その翌日に私に、
「パパに確認したけど覚えてないっていってるけど?」
 と、まるで少女のような、どうすればいいか分からないという不安げな顔で私に言ってきた。私は返事をしなかった。彼女にとって私は守るべき弱者でなく、逆に、自分こそが一番弱い人間であり、不安を晴らしてくれるべき存在なのが私だった。
 母は、ロクロク子供と直接話さない、向き合わない、育児放棄の父のメッセンジャーというか、テープレコーダーだった。
「パパが聡子のおっぱい見てドキッとするってさ!」
 そういったことまで私に伝えてきて、性的虐待から守ってくれるどころか、二人がかりで虐待をおこなった。なぜか。同じく、「私の不安を晴らすのは私でなく子」だからだ。
 私の父はときおり酔って母にも暴力をくわえていた。「誰が食わせてやってると思ってんだ」。母はたとえ全身を黒焦げに焼きつくされながらも、燃えさかる太陽にしっかりとしがみついて生きるしか無かった。
 男ゆえにケア役割を期待されなかった私の兄は、そのかわり放任と甘やかしが酷すぎて、自分では何もできない魯鈍のでくのぼうに育てられた。

 どうしてあんなに気持ち悪いほど執拗に私を見張ったのか。どういう気持ちだったのか。
 その気持ちを知りたかった。
 母は私と精神的に分離していなかった。一心同体であり、私は母のアバターであり、母に憑依されていた。義肢のような身体の延長だったんだろう。
 そうだと分かったら、話はかんたんで、自分の腕が、自分の意志とは関係なく動き出したら、だれでもとまどい、いっしょうけんめい制御しようとするだろう。
 無言だろう。
「こらっ、動くな、言うことをきけ」
 そんなことも言わず、だまって、筋肉をうごかそうと頑張るだろう。
 ただそれだけのことだったのだ。
 ただそれだけのシンプルな理由で私の心に傷を残す虐待がおこなわれたんだろうなと思う。そしてあらゆる児童虐待の理由が同じようなものなのだろうとも想像できる。

 30代半ばになって、母の孤独が痛いほどわかるようになった。私も、その孤独を解消できないまま子供を産んでいたら、同じように子に接していただろう。
 縁を切り、精神的に分離したあとで、私に分かったのは、私は母そのもので、母は私そのものであり、違いなど無い、ということだった。
 
 さっき、発達のプロセスの段階を踏んでいない『から』、人間関係が極端になる、という因果関係があるように書いた。一般に膾炙している論だから、通りが良いからだ。
 しかし、私はじつは最近、それを疑っている。
 ある特質が人間関係において障害になるとしたら、それは生まれたときに与えられた、乗り越えるべき試練であって、「母子関係の悪さ」は、それに分かりやすく気づくための単なるメタファーのようなものとして人生にあらわれる、といった見方に、傾いている。
 母子関係が悪い『から』…という因果律ではなく、『そう生まれたから、そうなのだ』…といったような。なぜなら、月と冥王星アスペクトは、数学の計算式のように、イコール「母子関係が悪い」とはならず、いくつもリーディングの余地がある。それが示すものは、あくまでただ、「月と冥王星が、アスペクトを形成している」という単なる事実だ。
 全ては何か、見えざる手の采配だったのかなと思う。
 もしかしたら、因果が逆で、その人は、濃密な人間関係を求める人生へと歩みを進めることになっているから、その伏線、予告、踏切でけたたましく鳴りひびく信号機のようなものとして、特殊な幼少期があるのかもしれない…。
 これは、ユング心理学で、精神疾患の原因を個人史に還元する方法論を拒絶していることを知って、このように考えるようになった。ユングは、幼少期に敬服していた年長男性から性的虐待を受けたことがあるらしい。かなり「去勢体験」的な、フロイト的エピソードであり、彼の精神史を考えたら重要な出来事だと思うが、研究家にあまりクローズアップされないのは、心の傷、トラウマが出来た『から』その後何がどうなった…といった因果律還元論を彼自身が採らなかったのが理由かなと思った。
 私はかつて親に変な育てられ方をしたから小児性愛者から身を守れずレイプされてしまったのかなとかそんなふうにまで考えて思い詰めることもあったけど、親が「因」じゃないとしたら、そのほうが、はるかに気持ちは楽になる。
 いずれにせよ、私の身に起こったことの本当の意味はなんなのか、一生にわたって思弁しつづけるのかもしれない。それは、変わらないのかもしれない。
 私はあいかわらず周囲に人もいないけど世界や宇宙となんとなく繋がってる感覚を身につけてきて、孤独感がつのることも無くなった。そういう感覚をスピリチュアルとか馬鹿にする人もいるだろうけど、悪いけどそういう人より私のほうが満たされてるんだろうなとは思う。
 このところは、私は死んだら過去にもどって私の母に生まれ変わって、私を出産するんじゃないかって気がしている。