宇宙の産み落とした私生児

とよかわの西洋占星術について考えるブログ。鑑定依頼は件名「鑑定依頼」でこちらへ→astrotoyokawa@gmail.com

自己虐待を乗り越えて、心と体の繋がりを取り戻す

 いつも読んでいただいてありがとうございます。今回は、まとめ的な記事なので、いままでの記事と内容がかぶることが多々あると思いますが、ご寛恕下さい。

 さっそくですが、いままでの繰り返し。
 女性とはこの社会で、他人の世話を焼くために生産されている。男の、子供の、他人の、そして親の。そう定義づけられている事実がある。
 世話焼きマシンであって、人間ではないのだから、当然、女性は自分自身の体から生まれつき疎外されている。それはけして私自身の所有物ではありえない。
 自分の体を奪われている。まるで手塚治虫の漫画「どろろ」のように。体も心も男のための道具であるから、私たちは適切な場面で適切な感情を抱くようにすら、しつけられている。女性の痛みや苦しみは、不定愁訴で片づけられ、気のせいだ、気のもちようだ、もしくは詐病ということにされる。この社会は、電車の吊りだなの位置ひとつにいたるまで、男性を標準として設計されているのだから、疲れやすい、生きづらいのはあたりまえなのに。
 『お前とのセックスはちっとも気持ちよくない、この下手くそ』のひとことが言える女が、どれだけいるだろうか。それの多くは女のせいにされる。私たちのだれもが、気持ちよくない、苦痛と不快だけのセックスに耐えて当たり前だと、喉にナイフを押しつけられておどされている。

 だから、女性が誰でもなく自分自身の面倒を見ることは、立派な反逆行為であり、体制へノーをつきつける意思表示だ。政治活動、反体制運動とは、なにも街中でデモしたり、SNSハッシュタグをつけて発信することだけではない。自分のためだけに料理をつくって食べるだけでもれっきとした反抗だ。

 男女に限らない話になってしまうが、情報化社会が発達しすぎで、若い世代ほど、自意識から身体性が乖離している。肉体など、心に勝手についてきた抱き合わせのわずわらしい付属物にすぎず、できることなら幽霊みたいに精神体だけで生きていけたらそれが一番いい。あるSFファンの会合で、「身体性と精神性の分離は可能だろうか」というアンケートがとられた結果、世代が若くなるほど、YESの割合が増えていったという話を聞いたことがある。さもありなんって感じがある。
 そしてもうひとつ、日本は国民皆保険で、病院代や薬代がとても安い。風邪やちょっとしたできものくらいで気軽に病院に行く人も珍しくないというかほとんど多数派で、体調を崩したら病院に行けばいい、薬さえ飲めばいいという感覚も手伝って、セルフケアや予防がおざなりになっている。

 私はしばしば力を入れても手足が動かなくなった。「動け、動け!」と念じる。しかし出来ず、ベッドから起き上がれない。トイレにも行けない。精神科医には、「操り糸の切れたマリオネットのような状態」とたとえて説明した。心と体がちぐはぐで、繋がりを失った末にそうなってしまった。

【食べる】
 自己疎外でうしなった自尊心を回復しようとしたとき、私はまずセルフケアを食生活を変えることからはじめた。私は食べるものにコストをかけても、食べ物って服や本や雑貨のように残るものではなく煙のように消えてしまうものだから、意味がないことだ、無駄なことだ、できるだけ安くおさえるべきだと考えていた。うーん、蠍サインばっかり片寄って使って、バカだね。消えてないよ、いまここにあって、捨てることも譲ることもできず一生ついてまわる私の体こそが、食べ物でできてるのだから。
 清水義範の短編小説に、このような話がある。「最近つかれぎみだから栄養とらなきゃ」この場合、栄養とは具体的に何をさすのだろうか?その答えには世代差がある、ということを論じたものだ。
 たとえば戦後を知っている世代なら「肉、特に牛肉、ビフテキ」。ごちそうの象徴でもあった。世代が下ると、「野菜」、特に「ビタミン」(80年代にポーリング博士がメガビタミン療法というのを提唱して、ビタミンブームのようなものが起こった)あるいは、「βカロテン」だったりして、要するに時代の流行や趨勢、研究の進み具合で、異なる。いまなら間違いなく「タンパク質」だろう。炭水化物に比べてタンパク質は高価であり、特に貧困の進む若者層ほどタンパク質が不足し、炭水化物依存が激しいらしい。ある調査では、現在の若者の栄養状態は、なんと戦後すぐの食べ物がない時代に匹敵するほど貧しいとリポートされている。そう考えると、「肉、牛肉、ビフテキ」って、要するにタンパク質のことで、時代が一周して、戦後の時代に戻ったととらえると、なんだか恐ろしい。
 一日のタンパク質の推奨摂取量は、体重×0.8グラムといわれている。つまり体重50キロなら、40グラム。タンパク質を優先して摂取するべきなのは、科学的根拠もあって、幸福感をもたらす脳内物質のセロトニンのもとになる。体の組織をつくるだけでなく、へこみやすくネガティブになりやすい、あるいはイライラしやすい状態も治してくれるというわけだ。セロトニンは分解されるとさらに、快眠を誘うメラトニンとなる。
 ダイエットといえばよく、糖質制限、糖質断ち、という人が多い。だけど私はダイエットにあたり、糖質を制限するというより、まずタンパク質を優先に摂りつつ、一日の摂取カロリー内におさえる、ということをしたので、特に糖質は制限していない。しかし糖質は高カロリーで低タンパクだから、必然的に多くは食べることができない。
 タンパク質を充分摂って、やっとごほうび的に、残りカロリー枠内におさまるように糖質をとる。結果的に少なめにはなる。タンパク質を多くとると便秘になりやすいし食物繊維もとるためにサラダもつけて、ついでに脂質もないと肌が乾燥するしドレッシングのかわりにオリーブオイルにする。気がつくと結局、何かだけを食べたり、何かを断つのではなく、バランスよく食べている。
 栄養といえば何か? ダイエット方法で有効なのは? そこには、はやりすたりがある。でもいつも変わらないのはけっきょく、摂取の比率を意識してバランスよくが一番だ、ということになる……恐ろしく退屈で陳腐で、私たちを失望させる結論ではあるのだけど。
 私は特に料理がうまいわけじゃないけど自分の料理ってなんておいしいんだろう、こんなにうまいものこの世にねぇよと思う。自分の舌の好みにだけ特化して作っているんだから当然だ。女性の場合料理のスキルって嫁入り修行のひとつってことにされてる。だからこそ、自分のためにメシ作って、自分だけで食う、ああおいしいおいしい、こんなに甘美な復讐はない。

【あたためる】
 これも、前項に共通するものがある。食べ物は、胃という体のストーブのような場所で、体をあたためるからだ。
 射手のアセンダント生まれらしく、私ははだしが大好きで粗暴な野生児だった。子供の頃、はだしのまま外に飛び出して、でこぼこの砂利道の上を歩いていたのを見て、母はびっくり仰天していた。
 そんな私は、はだし生活で冷えた足は母の足にくっつけてあたためていた。長じるとそれは彼氏になった。靴下やタイツのまとわりつく感覚がなんだか苦しく感じて、家に帰ってきたらまっさきに脱いで、冬でもはだし。そしていま、ひとりぼっちの中年になって、だれもあたためてくれないのに、代謝ばかり低下して、ますます冷える。観念して靴下をはいた。落ち着かないし、アトピーがあるのであたたまるとかゆい気がする。でも、体が冷えていると代謝が落ちて痩せにくいし、免疫力まで落ちて風邪をひきやすく、悪いことしかない。冬はお湯をいれたら10時間はもつ湯たんぽも併用した。自分は低用量ピルを飲んでいても月経痛や排卵痛が改善しなかったが、充分気をつけたせいか服用を停止してもほとんど痛まなくなった。
 いまだにやっぱり肌に布が密着する感覚はあまり好きじゃなく、たとえ冬でも帰宅したらまずやることは全裸になること、という習慣は変わっていない。しかし末端、特に足さえあたためていれば肌を出していてもなんとなく全身ポカポカとしてくる。冬の東京は、室内でもとても寒い。朝方などは殊更そうだ。でも耐えがたいほどまでにはならず、今年の冬はぜんぜん暖房をつけなかった。風邪も、ひきやすい体質と思っていたけど、今年はひいておらずその気配もない。
 冷たい飲み物はいっきに体温を下げてしまうらしく、夏の暑く汗をだらだらにかいた日でも、なるべくいっき飲みしないで、ちびちびとやる。できれば家では、氷をいれない水道水や、時間をおいて常温に戻したお茶。最近は、たまにキンキンに冷えた飲み物を飲むとなんとなく具合が悪いのでもうやめようと思う。マツコ・デラックスが、「常温水を飲んでいる女は全員ブス」と言っていた。私たちはこのように、女の分際で他人ではなく自分を気づかってケアする不届きな女が、男たちからどのように罰されるか、骨身にしみて知っている。

【動く】
 踊るのが好きだった。クラブハウスや盆踊り。でも同時に絶望していた。私は双極性障害(旧名は躁うつ病)という病名をかつてもらっていたが、元気なときとそうでないときが激しく、朝までクラブで踊れる日もあれば、何週間もふせって寝たきり、トイレに起き上がるのも大変、という病状を示していた。人は二週間も寝たきりになっていれば、全身のほとんどの筋肉が落ちてしまうらしい。ダンスというのは高度な振り付けになればなるほど、ある程度以上、筋肉が必要になる。私が憧れているようなキレのあるダンスは一生むりだなと思っていた。なにしろ、この病気は一生なおらないというのが常識だったからだ。
 治ってみて、振りかえってみて初めて言えるのは、何もみんなから称賛されるような振り付けをする必要はなく、ただ、心が踊っているから体で踊る、体で踊れば心も踊るといったシンプルなことが一番大事で、素晴らしいことで、それがすべてではないかと思う。恥ずかしがりやで思いきり踊れない人が多いといわれる国で、人前で踊るのに抵抗が無いというだけで才能で、もうそれ以上望む必要なんかないのでは? しいて、あの頃の私に言葉をかけられるとしたら、筋肉をつけるよりはまず体をやわらかくした方がいいと言いたい。筋肉はすぐ落ちるけど柔軟性はそこまで急激に落ちないし、ケガもしにくくなる。そして、猫背は呼吸が浅くなって、息が上がりやすくなるので、絶対にダメ。

 体を動かすこと自体に苦手意識があり、おっくうだとか楽しくない、という人はたくさんいる。いざ運動不足で調子が悪くなったとき、いやいや体を動かすのはなお気が向かず苦痛だろう。町内会の盆踊りだけでも、長時間真剣に踊ると汗がダラダラと出てきて気持ちいいから、まずやってみてはといいたいところだけど、コロナで軒並み中止で、街から踊れる場が消えている。
 ダンスの種類によるが、だいたいの人は、火星を使って踊る。女性は火星のエネルギーを抑圧されているから、スポーツとならんで火星の解放をうながすことのできる貴重なツールだと思うのに、残念だ。

【さわる、使う、着る】
 定価たった千円ほどの子供向けの万年筆を使っている。もっと高くてちゃんとしたものを使えばもっと快適なんだろうけど、それでもいくら手書きで長い文を書いてもまったく手が疲れなくなった。たまに普通のボールペンを使うと、すぐに手首が痛くなってびっくりする。
 自分ひとりさえ我慢すればゼロ円、ノーコスト、これがいままでの自分の考え方だった。我慢は無料、金とちがって減るもんじゃないと思っていた。でもそれは大きなまちがいだった。どんな小さいストレスでも、蓄積すれば、それは体と心を蝕む。自分をぞんざいに扱う習慣をなおす薬は存在しない。それはどんな大金を払っても、治療できない。何億円でもだ。
 貧乏なのだから、道具にこだわることなどムリだと思い込んでいた。特に万年筆なんか、いいものは何万、何十万円とするのを知っているから、とても手が出ないと。でもこだわるといっても、急に最高級のものを持たなくてもよく、そこは自分の収入と相談で、現実的に折り合いのつくラインを探せばいいだけ、っていうか誰もがそうしてる。オールオアナッシング思考でなくてもいい。
 いつもお金がなかったし、今でもそうだけど、考えてみれば無駄遣いが多かった。安いから、という理由だけでカゴに入れた服や、同じく安いけどすぐ壊れる加湿器などちょっとした品物など。あした自殺するかもわからない、未来の見えない私は、高いけど価値があって長持ちするアイテムは私を拒絶している気がしていた。そういうものの世界に入っていけない、入ってはいけない気がしていた。でも、大切なことだった。
 歩くのが好きな私は先日初めてNIKEエアマックス90を買った。それまではいていた2000円のスニーカーはすぐウレタンの底が割れて捨てた。いまだに、自分がこんな高いものをいいのかとドキドキする。でも使ってみると、安物を買ったときみたいな罪悪感や後悔はまったくない。姿勢や歩き方も靴も悪くて足首が痛んでいるのに、我慢して歩いていた昔の私。我慢は毒、って慣用句がそういえばある。ことわざってなんかすごい。洋服も同じく、質がよくて長持ちして、ついでに肌にふれたときの感覚が心地いい素材のを選ぶようになった。普通に買うと高くても、古着屋さんやフリマアプリを駆使すると、質が悪い新品を買うより安くつく。品質のよい服の選び方は、「シンプルなクローゼットが地球を救う: ファッション革命実践ガイド」(エリザベス・L・クライン著、春秋社)という本がわかりやすかった。
 料理などで、使いたいものが無い無いって探す時間、パッと手に取れず不便な時間はほんのわずかで、収納場所を決めたり整理整頓をする手間のほうが大きいようについつい感じる。でもほんのちょっと便利なだけで、ほんのちょっと快適なだけで、気持ちがよくて楽しくなる。生活って、自分を大切にするって、本当に気が遠くなるほど地道なコツコツとしたことの積み重ねだ。積み重ねができなくて、どうにもならなくなっても、病院にいって治してもらうことはできない。自尊心を金で買うことはできない。でも、誰でも、自分しだいで小さなことから建て直していける。変わりたいと思う心ひとつだけがあればいい。

【嗅ぐ】
 嗅覚はいちばん原始的な感覚といわれている。でもいまどきの若い人ほど、「いい匂い」はダサいと感じているらしい。コロナ禍でみんなマスクだと、ますます香水などもつけなくなるだろう。
 私は、たとえ香水やアロマオイルだけでなくても、なにかお気に入りの匂いを見つけて、リラックスモードに入れるだけでいいと思う。それはたとえばだし汁の香りや、玉ねぎを炒めるときの匂い、干した布団の匂いでもいいと思う。プルーストのいうように匂いと記憶は密接に結びついている。幸せなときの匂いを覚えておいたり、リラックスしたいときに特定のにおいを嗅ぐことで、気持ちを切り替えるきっかけにできる。
 鼻を大事にすることだ。ないがしろにしていい五感は、何ひとつとして無い。人間は視覚が先行しすぎている生き物だから、目に見えないものを感じとる能力がおざなりになっている。

【まとめ】

 新型コロナウィルスは、特定のだれかやどこかの国の陰謀の産物とはまったく思わない。しいて言うなら宇宙の意志だろうけど、森羅万象全てのことが宇宙の意志なので、あえて言うまでもないことだ。
 なんであれ私たちがもしも教訓なりメッセージなりを受け取ろうとするなら、それは、人間は自分の手でしか自分を守れない、ということだろう。基礎疾患のある人、免疫力の弱い人、持病のある人、喫煙者などは、感染ないし重症化しやすいというデータが出てきているけど、そこにあるのは、ごく普遍的な結論だろう。つまり、自分で自分の面倒を見れる人がどんな環境にあっても一番強いということだ。
 健康を人だのみ、薬だのみにしないって、克己心も必要だし、言葉にするほど簡単ではない。生まれつき自己疎外を強いられている、女性という性別なら特にだ。
 でも、みんないつか気づく日が来る。遅かれ早かれ、そのときがやってくる。だれもがこの虐待の街から出ていき、ゆくえも決めず、二本の脚で歩いていく日が必ず来る。その日私たちは、自分の体を取り戻しに行く長い旅に出る。

禍福はあざなえる縄…2020年を振り返る。

 2019年の暮れから2020年の暮れ、約一年間のあいだ、年女の私は三回目のジュピター・リターン(木星回帰)を迎えた。
 占星術を学んでから、ジュピター・リターンを迎えるのは実はこれが初めて。今年は拡大の年かな? 何が起こるのか? ワクワクとしていた。同時に2月からは土星がみずがめサインに入宮し、私の場合はネイタルとトランジットのダブルチャートで土星土星のスクエアとなる。土星は厳しい試練の星。
 木星土星という正反対の作用の惑星が、ミクロコスモスで同時に大きく主張する年なのだ。はたして、いったいどうなるのか?
 思っていたようでは全然なく、はるかに想像をこえた年だった。単純にラッキーイヤーとくくられる域を凌駕した、忘れがたい大変革の年になり、私はまるで一年で別人に変身してしまった。

 わかりやすく一目瞭然の証拠画像がある。
 これは私がInstagramに掲載している日記を抜き出したもなのでまず見ていただきたい。

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 一枚目は2020年のはじめ、2月のもの。二枚目はおおよそ一年後、今年のはじめである。一枚目は子供用の無地のじゆうちょうに星のカービィのボールペン。二枚目は国産の中性紙を使用したツバメノート社製の正方形型ダ・ヴィンチノートにエントリーモデルの万年筆。

 なんでしょうかねえ、去年のこれ、このキッタネェ字。見てる人なめてんのかよ、ってたった一年前の自分に思いますね。字が汚いほうが天才っぽいみたいなよくわかんねぇ甘えがあった。二枚目もすごく読みやすい字というわけじゃないけどこうやって比べると随分頑張ってると分かりますよね?! でも、なんでこんな変化があったのか、うまく言語化できるかわかんないけど自分なりに説明してみます。

 年が明ける。私は毎日謎の悪寒に悩まされていて、とても体調が悪かった。厚着して体をあたためて、しょうが湯飲んで、といったセルフケアをしてもなかなか良くならない。なぜだったのか。今ならわかるけど人間関係だった。自分に自信がなく人に甘いから、おかしな人に対してもけじめがつけられなかった。一度は突き放した人に、「反省してるのかな」と勝手な思い込みで近づき、おもりのママになっていた。
 まさに、土星みずがめ入りの2月ごろ、私はダイエットを決意する。それまで私はだいたい53~56キロくらいだったが、BMI22の47キロが目標。理由は、太っているから見た目で、なめられやすい、軽くみられやすいというのがあるんだろうなって思ったから。4月ごろ、私のファンを名乗る人物から、親切顔で、賞味期限の切れたお菓子を送られ、やっぱりなめられてんなと、ますますダイエットを頑張る決意をかためる。木星はふとる、土星はやせる、火星は筋肉がつくという象意があるので、まさに土星土星スクエアのような出来事だった。
 この目標値は秋に達成された。

 私はもうひとつ悩んでいた。好きなファッションが似合わなくなってきたなとうすうす感じてきていた。私は派手なファッション、原宿系のような奇抜で原色や蛍光色を多用したファッションが好きなんだけど、顔つきの老化にともなって、なんだか自分が、自分の理想の姿ではないなと迷いが出てきた。人と同じようなのはいやで、派手なおしゃれをしたい。どうすればいいのか? 迷った結果、高校生のとき着ていたクレージュに代表される60年代ファッションだったり、ギャル系だけど大人っぽくも見える、セレブ妻とかトロフィーワイフっぽいタイトなきれいめコーデにたどりついた。これは自分に合ってるんじゃないかといまは納得している。
 土星は権力者を象徴する星でもある。振り返ると、やはり土星からの圧力や視線を私が無意識のうちに感じ取り、意識せざるをえなかったのが分かる。
 後者は、収入を安定させるために婚活してみようと目標ができたことでも興味をもった。貧困だからなめられるのなら、金持ち男のトロフィーワイフになってやるってヤケクソになった結果といった風情でしょうか。これを書いているいまも、スキニーデニムをはいているけど、いまどきはいている人が少ないけどタワマンの前歩いてる人は歩いている。住んでいるところは貧民窟だけどすぐそばにタワマン街があるので、タワマン奥さんのファッションもチェックして真似して取り入れたりしてました。いまってブカブカな服がトレンド一色だからせっかくダイエットしても痩せたなりのタイトなコーデが素直に楽しめるかというとそうでも無いですよね。
 ダイエット停滞期に入り、また腹がぽっこりと出たままなかなか引っ込まないので2ヶ月ほど整体にかよって姿勢矯正。腹だけ出ているのは猫背によるインナーマッスル退化で、内臓が垂れてしまっていたかららしい。猫背だったけどかなり直せて、見ための印象も格段によくなったと思う。歩き方ひとつでもぜんぜん変わってくるからYouTubeなどで正しく美しい歩き方を調べて矯正をがんばってる。ウォーキングが好きでたくさん歩くので、正しく歩けばそれだけで腹筋やハムストリングが鍛わって筋トレに近い効果があるのも嬉しい。

 印象。それって大事だ。もって生まれた顔や体を変えることはできないが、印象は努力でコントロールできる。
 印象が良いと、人間関係が円滑になるだけではない。他人からみて自分はどううつるのか…、そういった想像は、私の苦手な乙女サインのつかさどる客観性に立脚したものだ。人間関係は第一印象で大部分が決まるともいわれている。怖い話だなと思う。でも、すごい美人じゃなくていい、モデルのような体型じゃなくていい、ただ、卑屈というのでなく感じよくして、印象がよければ、人付き合いが圧倒的有利だなんて、そっちのほうが夢のある話だと思う。
 身だしなみは相手に安心感を与えるための思いやりであり、想像力だ。11月12月と、たった数回しか婚活パーティーに行かなかったけど、それを学べたし、すごく勉強になって、大きな糧になった。
 髪の手入れも印象をすごく左右する! ほとんどといっていいくらい。でも、一朝一夕、急にとりかかって、なんとかなるものじゃない。髪ってみんな日常的に洗うし人目にさらしてるのに、自分に合ったケアをするのってやってみると案外むずかしい! 私もぜっんぜんまだだと思う。でもだからこそ、美人といわれるより髪がきれいって言われるほうが嬉しい。自分自身も、髪をちゃんとしている人を見ると、あぁある程度自分に厳しい人、自分が見えてる人なのだろうなとなんだか居ずまいを正す気持ちになるし憧れます。育爪ブームだし、マニキュアで飾るよりは自爪のツヤに気をつけてきれいにしていたい。
 栄養バランスやメンタルコントロールのためにプロテインを飲んでいますが、髪や爪もタンパク質でできているから美容のためにも続けたい。

 そう、このタンパク質。見た目の問題だけではない。ダイエットにあたり、タンパク質それに鉄分をきちんと摂る健康的な食事を心がけたおかげで、精神的にも安定し、ネガティブ思考の海にいつまでもたゆたうことも、人に嫌われたら私は生きていけないと依存し顔色をうかがうこともなくなった。
 数年前まで、人生も体もボロボロで、一日中ベッドにへばりついて、トイレに行くのもひと苦労、歩いて1分のコンビニにも行けない、つねに頭が痛く肩こりも…そんな生活をしていた私が、うそみたいに元気になった。空気がおいしい。日光が気持ちいい。何それ本当に私か? うける。
 読みたい人が読めばいいから汚くていいのだと、雑に書いていた日記も、思いやりとして、読みやすさを意識してきれいな字で書くよう心がけた。長文を書くと手が疲れるときも多かったので、セルフケアの一環として、書き味のよい筆記具やノートを買い求めることにもなった。
 読めればいいでしょ、わかればいいでしょと人に苦労を強いる、その甘えがゆるんだ体型にもつながってたんだなと思う。

 中年期以降は特に健康と美容って直結するんだなとすごく思いしらされた年だった。

 そして、まるで運命に導かれたかのような、ホラリー占星術および、伝統的占星術との出会い。ふりだしにもどるような、学びのスタート地点にいまやっとたったかのような衝撃的な出会いだった。ホラリーチャートを立てれば立てるほど、全ては精巧なパズルのように組み立てられいて、偶然ではありえなく必然なんだと、いやがおうにも、知らされてしまった…。

 わざわいも、しまりのない人間関係も、すべて私自身が招き寄せていた出来事だった。自分のレベルが低いから、レベルの低い人を引き寄せていたのだ。
「私はすぐなめられる、変な人にタゲられる」と被害者ヅラしてた自分。でも自分の身は自分で守るしかない。一年でここまで成長できたなんて…。

 福徳の吉星・木星と、試練の凶星・土星。ちょうどその2つが二重らせんのようにからみあい、大きく脱皮できた年になった。
「禍福はあざなえる縄の如し」というけど、そのとおりだ。この言葉考えた人すごいな。

 おりしも夜空では、20年ぶりに木星土星による会合、いわゆるグレートコンジャクションが起きる年として、占星術界のみならず、話題となった。
 木星土星にはそれぞれ理想と現実という象意もある。なのでこのグレートコンジャクションに、人々の理想が現実するという意味を読み取る占星術師も多い。
 私個人としてはそれまで遠く分かたれていた自分自身についての理想と現実のすりあわせがおこなわれたと思う。人からどう見られたいかの願望と、実際にどう見られているのか、激しい乖離が少しずつだけでも、埋まっていってるように感じる。そんなにすぐ何もかもかわらないし、まだまだ、だと思うけど。
 このところはずっと、思考を整理するためになんでも紙に書き出している。なりたい理想の自分も書いている。突然なれる人はいない。一歩一歩近づいていきたい。

 あけて2021年のこの1月は引っ越しを予定している。エネルギーをかなり要すると思うけど、正念場なのでがんばって乗り越えたい。そして今年も、目標は健康。体=心の。整理整頓、陰陽合一、身だしなみ、感じよさの裏にほの見える迫力、こんなところをがんばっていきたい。あと、尻トレする!

 とりとめのない記事になってしまいましたが読んでくれてありがとうございます。
 今年もアストロとよかわとこのブログをよろしくお願いします。

 プロテイン飲もうぜ!

モダン占星術の意義

 書評を見てわかるように、最近、伝統的占星術にのめりこみ、ホラリーの技法を本やサイトを見て勉強しています。
 知らないことが本当に次から次と出てくるし、リーディングもかなり厳密。占星術を知ったばかりの頃は、あいまいでアバウトなのが魅力だなあと思っていたけど、それはあくまでモダン占星術に限った話のようでした。

 ネイタルは読めるけどホラリーについてはちんぷんかんぷんという人は、どんな流れかひととおり知るには、朝比奈ジュン氏の初学者向け指南サイトが役に立つと思う。
https://asahinajun.com/cl-horary/

 ただ間違っているのではないかと思う記述も数多い。「人生にはネイタルで表示されていないこと以外も起こる」「同じネイタルでも環境によって違う人生になる」というのは、明確に間違っているので、真に受けないようにしてほしい。前者が真なら、レクティファイという技法が成り立たないし、後者については、そもそもネイタルには生育環境も表示するので、環境が違ったら…というのはありえない。また、「ホラリー占星術は「もしも~したら」という仮定の質問はできない、たとえば、もしも離婚したらどうなりますか?といったような」という文も、かなり詭弁の香りがする。ホラリーでは当たり前に、転職すべきか?とか、この人とつきあっていいか?といった質問に答えるが、これらはパラフレーズすれば、「もしも転職したら状況はよくなるか?」「もしもこの人と付き合ったら幸せになれるか?」といった仮定の質問だろう。いずれもどうも逃げ道というか、クライアントをごまかすための手口という感が否めない。
 さらに自分独自のレセプション技法について、「ある人から伝授された、口伝のみで伝わっているものだ」ともったいつけて紹介しているが、本の形で文字にされた技法でも、年月を経ると誤読や誤訳による伝言ゲーム状態で真偽がわからなくなるのに、何十年何百年と口伝で正確に伝達できるとは考えにくい。正直ハッタリだなと思っちゃいました。なんとなく人として信用しにくいです…。

 ホラリーや伝統的占星術については、ネイタルおよびモダン占星術よりかなりマイナーということで、訳出書も少なくかつかなり高価である。Kindleだと送料も無いし、原書で読んでみようと思い、まず定評のある「The house: temples of the sky」(デボラ・ホールディング著)を購入した。なんと、たったの900円ほど! まだ最初しか読んでいないが、ハウスの象意の成り立ちの起源に迫る濃い内容で、大変興味深く読んでいます。
 
 ところで、伝統派は、モダン派を目のかたきにしている人がとても多い。モダン派は、占星術自己啓発やカウンセリングとごっちゃにし、チャートのリーディングはどうとでも受け取れるあいまいなもので、好きな結論を我田引水に引き出せる、といったように。

 確かにリズ・グリーンの「サターン/土星の占星学」を読んだときは、ずいぶんアバウトだなと私も思いました。1ハウスに土星がある人と牡羊サインに土星がある人が同じとはどうにも考えにくいし(彼女のこの分類はよく批判のやり玉にあがる「ハウスとサイン」の同一化の例である)、そしてこの本を読むと、なんだか生きている人すべてが幼少期に親から深刻な抑圧を受けて育ったように思える。

 それでも私は伝統派の急先鋒が言うように「心理学など学ぶな、ユングなど学ぶな、占星術をそんなものとごっちゃにするな!」というふうには、どうしても思えない。
 17世紀ごろにいちど衰退した占星術復権の背景には、人々が自分の内面に興味を抱きはじめた、いわゆる、よく言われ過ぎて陳腐だけど「心の時代」がやってきたことがあるだろう。人間は自分の肌の外側で起こっていることより、その内側で何が起こっているのか、いわば内的宇宙に目を向けるようになった。
 伝統派の言うように、宇宙はすべて神の設計図どおりに動いているのなら、そういった内的世界への興味の高まり、簡略化によりいったん伝統的占星技法が衰退することもまた、設計のうちなのではないだろうか。

 どうしてこんなに充分に科学が発達したのに、人間は(そして女はなおさら)生きていて苦しいのだろう。知りたいことを教えてくれないからだ。なぜ生きるか、どう生きればいいのか。

 世の中が女の話に耳を貸してくれないのなら、占星術を通しての宇宙との対話が我々を癒すのではないかと今でも思っている。そしてそれは時に、(自動計算ソフトで品位点数を計算して事足りるような)機械的で味気ないホラリーや、血のかよわない伝統的占星術ではどうも片手落ちに感じるのだ。

 いまの時代に生きる大衆の心が何を求めているのか、それに興味を持たずバカどもの言うことなんか知るかと切り捨てるのって、占星術の意義がわからず熱心に否定する近代科学とやってること変わんないのじゃないか?

「お前は細かすぎる」と乙女座を避難する魚座、「お前はいいかげんすぎる」と魚座を避難する乙女座。それら対立概念の矛盾なき融合が、陰陽の合一となり、至高の境地となる。
 それと同じことが伝統とモダンに言えるのだろう。

 そういうことを考えていたら、マギー・ハイド氏の素晴らしい文章を鏡リュウジ氏が訳出しているのを、Googleのいたずらで偶然見つけて、私の考えに近いことが書かれていた。偶然ではないんだと思う。

 鏡リュウジ公式サイト-鏡の視点 心理学的ホラリー(サイコロジカル・ホラリー)
http://ryuji.tv/shiten/?id=24

お前など誰も愛さない。だけど/フェミニズム占星術序説②

 境界例人格障害という病気(障害)は、自分はそのままではけっして誰からも愛されないと思い込み、人に愛されるためになりふりかまわずしがみつき、絶えず人からの愛を試すのが特徴とされる。
 私が大体10代の頃、世に人格障害ブームのようなものが起こり、本がたくさん出たり言及するWebサイトが多かったりして、私も知識としては知っていた。しかし、不思議な気分になったのを覚えている。何故なら、女性に生まれたなら誰だって、人に好かれ愛される努力をしないと駄目だ、そうしないワガママで傲慢な女は存在する価値すら無いというのは、当たり前に社会からしょっちゅう受け取るメタメッセージであり、素直に受け取るのがなぜ病気なのだろう、と、ここまで言語化できないにしろ、うっすらそう思っていた。

 女の子だから自分勝手もいけないし、ブスやデブやババアも女失格だし、外見しか価値がないと思われているのに外見だけ良くてもしっかり「性格ブス」の烙印も待っている。
 私は上記の診断名を一度も貰ったことはない。でも、いつもいつも体調が悪くて、苦しかった。親からも男からも愛されていると信じていた。でも、私が精神疾患の診断を受け、薬の副作用で風船のように体が膨らんだとき、私はいっきに全てを失った。体型のことを一番手酷く罵ったのは親だった。間抜けにも私はそこで、愛がただの支配だったことをはじめて自覚したが、本当は各種の心身症状が、20年もまえから、それを告げていたはずだった。
 しかし、たとえ親の問題抜きでも、きっと私はこう思い込んできたはずだろう。私は誰からも愛されない、と。

 私は私のすべてを愛してくれて守ってくれる存在が必要で、体が助けを求めていたから、あんなにも具合が悪かったのだと思う。

 処女であれ、娼婦であれ、母であれ、男のミューズであれ。
 そうでないと、誰ひとりとして、お前を愛さない。
 誰もおまえを愛さない。
 誰もおまえを愛さない。
 誰もおまえを愛さない。
 直接にそう言葉にしなくても、言語というのは何も言葉ばかりではない。テレビではいつも「勘違いブス」が嘲笑されている。テレビCMや中吊りや街頭広告で、太った女が笑い者になっている。金に執着する女に制裁が与えられている。
 上記の境界例人格障害というものが、圧倒的に女性が多いのは、必然的なことだ。個人ではなく、社会の側が病気なのだ。

 私はいつも冬の真夜中に素っ裸で外に放り出された幼児のような気持ちだった。
 親子関係のせいなのだろうか、それとも関係ないのか、自分を、この世に親も帰る家もない、ひとりぼっちの、宇宙が産み落とした私生児のように感じて、いつも孤独だった。
 孤独から逃げるために私は愚かにも他人に無限の寛容とやさしさを押しつけてばかりで、不幸な人を見つけるとそのときだけ急にめちゃめちゃイキイキした。不幸な人は私のやさしさを必要としてくれるからだ。自分を切り売りして歩いているぶんおかしな人から目をつけられるのも多く、たくさんの人に「豊川さんなら分かってくれると思って」と言われ、頼られ、当然の帰結ではあるが数えきれないほど危険で不愉快な思いもした。

 いつも人のためにばかり動いているわりには、自分と世界との間にすさまじい隔たりを感じていた。透明なガラスが一枚あり、向こうを見ることはできるが、どうやってもあちら側にいけない。普通の人々が普通の幸せを感じて、笑ってはしゃいでいるのを、寒空の下、窓の外からながめるしかできないかのような。

 人に愛されないと、必要とされないととても生きてはいけないだろうと思い込んでいた私が、なにをきっかけにそのような地獄から脱したか。この本一冊、この言葉ひとつといったシンプルなものではなく、たぶん段階的なものだったと思う。

 ひとつは、精神科医に、具体的な悩みは薬で解決しないと言われたこと。それもそうだなと、私のつらさって女性であるってことが原因であるのがほとんどだなって思って、飲むのをやめた。特に変わりはなかった。
 薬は飲みつづなければダメ、薬でしか治らないというのが常識である疾患だったけど、薬でも治らなかったし、やめたほうが体調が上向きになってきた。副作用が重かったこともあるのだろう。

 もうひとつは、占星術、心理占星術との出会い。特にリズ・グリーンの「占星学」は衝撃だった。自分の人生に登場する人物や物事はすべて自分の心の投影であるという考えが。それは占星術錬金術でいう「外在化」であり、仏教でいう主客合一である。(モダンな占星術は、神秘思想→ユング心理学→心理占星術という順で伝播した東洋思想も取り入れられている。)

 自分は社会の歯車からはじきだされて、何の一部にもなれない。死ぬまで何かに帰属意識を感じることなどできないだろうと思っていた。
 社会が私に死んでほしがってる思いが流れ込んできていたから、死んであげようと思っていた。

 しかし占星術を、とくにホラリーを学べば学ぶほど、この宇宙は一個の生命体で、私はその細胞にすぎないという確信以上の実感が私の体を満たすようだった。全てが、単なる連動以上に連動しているのを感じてきた。

 自分が間違いなく宇宙の一部なら、小さな共同体や社会の一部になるために無理やり自分を痛めつけたり、それが出来た出来ないで一喜一憂する必要があるだろうか。
 愛されようとする必要はなく、また、誰からも愛されないと嘆く必要もない。しょせん人間って、どんな人であれ、他人である以上親からも全てを肯定されることなんてありえない。ただ生きてるだけでいいんだよという一番ほしい言葉を言ってくれるのって宇宙しかないと思う。なぜ私は生きていて、ここにいる? それは宇宙から必要とされてるから。宇宙から、愛という言葉でも定義しきれないような愛を受け取っているから、だと結論づけた。依存だけの人生が終わった。

 誰も私の本心や人格の奥底を理解できない。他人には理解できない。私だけじゃない、誰でも同じだ。でも宇宙だけは私のそれを知ってる。ホラリーチャートがそれを証明している。

 私がここに書いたことを私のように実感レベルで理解できる人って少ないと思う。インターネットの流行は、もうずっと科学信仰、疑似科学批判が「正しく」て、かっこよくて、それさえやっておけば間違いのない態度で、誰からも悪者にされないし、炎上なんてありえない。スピリチュアルっぽいこと、エビデンスも無いことを信じたら、フォロワーから狂ったのではないかと疑われ、フォローをはずされるだろう。横並びは安心だ。でもみんな、なんか全然幸せそうに見えない。

 人から愛されなければ価値がない、という女性に課されたジェンダーロールのくびきから逃げる手段は、人それぞれだろう(一生逃げられない女性ももちろん多いだろう)。私の場合の答えがただこれだったのだと思う。

 いま、私を心を支えている事実は、自分がだれの子でもなく宇宙の産み落とした私生児であることだ。そうでない子など本当は一人もいないけど。

【感想・書評】河内邦利著「星の階梯Ⅰ」(カクワークス社)を読んだ

 2018年発行、河内邦利著「星の階梯Ⅰ」を読んだ。
 著者はジョン・フローリーに師事し、イギリスで西洋占星術を学んだ人。現在はホラリー占星術を中心に実占やセミナーを実施しているようだ。この本は、おもに、17世紀以降のモダン占星術からは失われてしまった伝統的占星術のエッセンスを詰め込んだ入門書的な位置付けの本だろうか。
 カクワークス社は自費出版協力出版?)の会社で、言っては悪いが造本に関してはそれなりの粗い仕上がり。本文用紙はつるっとしたファインコート紙にオンデマンド印刷(トナー印刷)なので、紙や文字がギラギラと光を反射して、可読性が低い。本文フォントも本文用ではなく見出し用に使うようなウェイトの重い(太い)ものを使用してしまっておりさらに読みにくい。挿入される図も解像度が低くてジャギジャギでめちゃくちゃ素人っぽい。デザイナーの手が入っているとは信じがたい。また、ソフトカバー仕上げの表紙でカバーも無いので(同人誌のような感じ)、繰り返し読むなら表紙補強のために自前でカバーを用意する必要があります。
 元々複数に分かれていたテキストを一冊にまとめているのだろうか、注釈のタイミングや有り無しもおかしく、巻末に校正者への謝辞が入ってるのを見た時は、えっ校正入ってんの?! ってなった。
 しかし書かれている内容はそうした欠点を補って余りある貴重さ、充実さです。私はモダン/ネイタル占星術から勉強をスタートさせた身で、おそらくほとんどの人がそうかと思いますが、内容は伝統的占星術/かつホラリーについてが中心なので、ほんとうに全く知らないこと、蒙を啓かれることだらけです。
 たとえば、サインの象意=ハウスの象意と混同してしまったのがモダン以後の占星術で、この考え方だと、1ハウスと牡羊サイン、2ハウスと牡牛サインの象意が相互互換可能のように思えてしまうが、本来は全く別物。ハウスに数字が割りふられたのも、後世の出来事とのことだ。これを理解していないとホラリーどころかネイタルでも解釈が曖昧になってしまうだろう。
 もうひとつ例をあげれば、満月について。月がもっとも大きく見えるときなので、俗流解釈だと「月が一番パワーを発揮するとき!」と思いやすい。しかし、満月時には太陽と月はオポジションであり、月は完全に太陽に支配され、パワーを弱めている。月はその速度の早さから旅人にたとえられるが、天頂で太陽がギラギラと旅人を照りつけて体力を削っているさまという擬人化を使って提示されて、目からウロコと同時にとても分かりやすい。プロの占星術師を名乗る人でも、満月=パワー最大と説く人は多いので、伝統的占星術を知ってるか知らないか、ある種線引きに使えそうです。
 太陽がギラギラといえば、9ハウスがなぜ太陽のジョイにあたるかというのも、太陽が9ハウスに入る午後2時あたりが一日で一番暑いからというのも、なるほどと思った。こんな、手を打ちたくなる「なるほど!」がいっぱいに詰まっている。
 だけど、構成がごちゃごちゃとして本当に読みにくい!!! 初学者が戸惑うような専門用語へのリファレンスも十分といえず、入門書のような体裁にもかかわらずまずこの本から学ぶということは全くおすすめできない出来になっています。著者は私と同じ誕生日の太陽サイン魚のかたということで、魚サインの太陽を持つ人特有の、客観性が無くカオスで混沌とした頭のなかをそのままひきうつしたみたいな本になっています(笑)。
 それでも私は、前作「愛のホラリー占星術」次回作の「星の階梯II」は間違いなく買い求めるつもりでいます。伝統的占星術の奥深さ、芸術的な美しさに、すっかり魅入られてしまいました。
 前回読んだいけだ笑み先生の「ホラリー占星術」と内容がかぶる箇所もありつつ、さらに真髄に迫る内容になっているので、読んだ順番はこれで正解だったなと思いました。
 長くなりますが、「エピローグ」から一部引用します。


(以下引用)
 占星術は、神の言葉を読み解く行為と、祈る行為が揃ってしまうために、極めて信仰心を培いやすいものだ。祈ることと、神の言葉を仲立ちすることは、占星術の中で手を握りやすい距離にある。繰り返しホラリーによる判断をしていると、必然的に、神々から絶えず示唆を受けている気持ちを抱かせてくれる領域に達するからだ。

 仏教には、この世の全ては心の顕現であると捉える、唯識論の考え方がある。この考え方では、星々の位置が何かを語る瞬間があるとしたら、意味のあるものとなる。見ただけでは、空に描かれた星々による模様にしか映らない。唯識論で考えれば、現在の星々の位置が私の現状だとすれば、星は動いていくわけだから、将来の星の位置は、未来の私の状態を表すことになる。

 宇宙は、統一体・統合体以外の何物でもない。宇宙が生まれた時から、個々の魂は設計済みであり、同時発生したものであり、片時も宇宙から離れて存在することなどできない。このことは、我々の魂も、絶えず宇宙と共鳴以上の関係で存在し続けていることを意味する。数学的な解析も、形而上学的な解釈も、占星術的な考察も許されていいことである。
(以上引用おわり)

 ビッグバンによる宇宙誕生の瞬間に、全ての時はもう発生したのでは、というのは最近も私がずっと考えていたことだが、似たようなことが書かれていた。
 私は勉強、検証のために既に何回かホラリーチャートを立ててみて当たるかどうか、リーディングは合っていたかなど確かめてみました。当たっていることが多すぎて驚きましたが、しかし占いにおいて一見最重要と思われる「当たる、当たらない」の部分、(もちろん大事ではありますが)それのみに拘泥していたら到底見えないことがある。それは上の記述のような、哲学や宇宙に対しての信仰の部分だ。
 毎回同じことを書いちゃってるかな? 占いってあくまで手段なんだと思う。自分が心安らかに、穏やかに、一日一日を大切にし、世界を信頼して生きるための、単なる手段。世界、つまり自分を愛するための手段。特にホラリーは、自分と宇宙がダイレクトに繋がってるってことをいちばん手っ取りばやく感じられる。天に質問をしたらその瞬間の星図が答えを出してるなんて、荒唐無稽と思われるやり方で…。
 著者は、ホラリーをマスターするまで10年、ネイタルは20年かかると言っている。一見ホラリーのほうがむずかしいように感じていたから、意外だった。自分はスタート地点に立ったばかりなんだな。自分が無知であることをあばかれたら、機嫌が悪くなる人とわくわくする人の2種類が世の中にいると思うけど、私は後者なので、これから伝統的占星術をどんどん学んで、自分の無知を痛感したい。著者が参考にした英語の本もたくさん紹介されていて、英語かー、トホホー、読むの疲れるーって気持ちになったけどまた久しぶりに英語にも挑戦したいです。
 ホラリーチャートは、究極を言えば、たとえずぶの素人でも惑星の品位とハウスの意味と強さだけまず覚えたら、簡単な質問ならすぐ立てて解釈できます。(著者言うに、「試験に受かるか?」という質問なら、アセンダントのロードの品位だけで分かる。くわえて、月がフォールなら確実に落ちる、とのこと)
 自分イコール宇宙であることを実感して、震えを感じてみたい人は、まずは一回ホラリーチャートを立てることに挑戦してみてほしいです。

【感想・書評】いけだ笑み著「ホラリー占星術」を読んだ

 いけだ笑み先生の書いた「ホラリー占星術」(説話社、2009)を読んだ。

 ホラリーに興味を持ったのは前回読んだ「ユング占星術」(マギー・ハイド)の中でその技法が多様されており、ハイドが「ユングはホラリーを軽視したから、シンクロニシティ理論の確立に誤謬を含めてしまった」というようなことまで言っていたからです。

 ホラリー占星術とは。
 ネイタル占星術では、生年月日からチャートを立てるけど、ホラリーでは質問が発生した瞬間(占星術師が質問を理解した瞬間)のトランジットでチャートを立てる。つまり、出生時間など細かい個人情報なしに、いつでもなんでも質問できる。
 この恋はどうなるか? 彼とは付き合えるのか? 試験に受かるか? この服を買ってもいいのか? いなくなったハムスターはどこにいる? などなど、万能に近い技法だ。
 それゆえ、恣意的に都合の良い解釈を引き出せないよう、かなり厳密に細かくたくさんの判断材料を見て結論を出す。なにしろ、まず「読むに値するチャートか?」というところから、判断する必要がある。クライアントが隠し事をしていたり、考えがまだ固まっていなかったり、逆に答えがもう彼の中で出ていたり、この質問に答えることで占星術師自身によくないことが起こる、そんな兆しまで、チャートにあらわれている。読むことに決めたあとは指示星の状態を何箇所もチェックし、細かい点数計算。これにくらべたら、思えば心理占星術って結構ざっくりしてたなって感じる…笑。こんなふうに最終結論を出すまではひと苦労。そのぶん、ズバリ的中したときの快感や、畏怖の感情は、半端ない。
 問いが発生した瞬間に夜空を見る…シンプルに言えばそれだけのことだが、なぜ当たるのか。ハイドによれば、それがユングや、グノーシス思想のいう、「一なる世界(ウヌス・ムンドゥス)」ということみたいだ。

 まず占星術を勉強しようという人は、多くの場合、ネイタル占星術から入って、さらに学問体系への理解を深めるためのステップアップとして、ホラリーに手をひろげるというパターンがほとんどだと思う。私もそうだったので。なので、この本は平易で理解しやすい入門書ではあるものの、読むには占星術についてまったくの素人だと厳しいと思う。いけだ先生は松村潔氏の高弟とのことなので、少なくとも松村氏の「完全マスター西洋占星術」あたりを通読して、アスペクトやサインの意味を頭に入れておくといいと思う。(分厚くて高価な本だが、図書館に入っていることも多い)
 この「ホラリー占星術」は290ページと、この手の専門書にしては物理的には薄めの本だが、内容は濃い。必要な技術や情報がコンパクトにまとまっていて、これ一冊だけでいきなりホラリーチャートを立ててリーディングすることも可能だ。
 私は二回通読して、二回目はノートにまとめながら読み、おそろおそるだが自分に関する質問でホラリーチャートを立ててみたが、結果、私の心の動きまでかなり当たっていたので驚きました。
 主にネイタルやシナストリー、トランジットとのダブルチャートくらいしか経験の無い私は、聞いたこともない概念や用語が多数出てきて、一見呑み込むのが難しく感じて、「頭ぐにゃ~~~」となったのですが、根気強く何度も読み返してノートを取れば、ちゃんと理解できました。少なくとも、ネイタルを手助けなしでソラで読めるようなレベルまで習熟できたほどの頭脳と情熱があるなら、あまりに難しすぎるということは絶対に無いと思う。
 税別2200円という価格も占星術関連の専門書としては格段に安く、女性でも手に取りやすくて大変ありがたい! 普通めっちゃ高いよね、占星術の本…。

 いけだ先生自身がクライアントの許可をとって実占で立てたチャートとその解釈過程も多数掲載されている。状況だけは完璧に当たっていたが、結果のみはずれていた、という例も載せていて、いけだ先生の誠実さを感じた。
 もしも天それ自体がアカシックレコードのようなもので、運命がすべて決まっているならやる気をなくす人も多そうだけど(そうだとしても私はぜんぜんやる気あるけど)、なんとなく不可知の部分を残すことで、未来を自分の手で変えられるような余地を感じさせていて、それがうまい。たとえホラリーで悪い結果が出ても、がんばって運命を変えようという気持ちになれそうな気がする。

 ネイタルさえおぼつかないから、ホラリーはまだちょっと…という人でも、伝統的占星術を強く尊重した天体やハウスの象意解説はかなり宇宙観を拡張してくれるし、いますぐホラリーに手を出す予定がなくても一読をお勧めします。通常、黄道12宮や12ハウスが人間の一生の発達過程を象徴しているというのは、誰でもよく聞いてる話だろうけど、この本ではさらに、ハウスを時計回り(通常とは逆)に読んでも、人間の一生を言い当てているという指摘があり、新鮮でゾクゾクするほど知的好奇心が刺激されました。
 ただ占いとして役に立つ、実用性があるというだけでなく、蒙を啓かれるときのどうしようもない快感、胸のトキメキがあり、芸術としても完成されているから、人は占星術/占星学にこんなにも夢中になるのだろうな。

 また、大阪ホラリー占星術研究会さんが、公式サイト上でリーディング用のシートをpdfで配布してくれている。運営の竹宮千生さんが作成したもので、空白に書き込むだけで点数計算など出来て、練習にも実占にも使える便利なものです。
https://gamp.ameblo.jp/osakahorarykenkyukai/entry-12400827240.html

 夜空が答えを与えてくれる、というホラリー占星術は、門外漢から見れば、まったく理解不能というか、おかしな関係妄想のたぐいに思われるかもしれない。私は、占星術、とくにホラリーは、愛に関係する技術ないし哲学だと思う。人間は、すべての物事は、宇宙という大きな生物を構成する小さな細胞のようなものだ。細胞は自分が何をしているのかも、自分が何者かもわからない。でもどれひとつ欠けても生物として成り立たない。
 どうして私は存在するのか、何のために私がいるのか。誰でも直面する哲学的な問いだ。どれほどちっぽけな人間でも、大きな宇宙の一部である。自分がここに存在するということはつまり、宇宙に愛され、宇宙に必要とされていることだ。占星術が教えてくれるのはそのようなメッセージではないだろうか? ホラリーチャートをみれば見るほど、途方もなく巨大で、不可解で、奇怪で、一見私に無関心でよそよそしい宇宙が、しかし確かに、私に応えているのを感じる。ひとりじゃない、と私に言ってくる。すべては偶然ではなく必然で、だからこそ一日一日を生き抜こうと背筋がのびる。ホラリーにはそんな効能もある、と実感した本でした。

整理魔になりたい/魚座的欠点を克服して健康になった

 松村潔氏が、魚座(魚サイン)を鍵のかからない部屋にたとえていたのだけど、太陽・金星魚、ついでに1室海王星、ノー・アスペクト木星の私は比喩でなく実際に家に鍵をかけるのが苦手だ。部屋の鍵があいている状態が好きである。ストーカーが勝手に部屋に入ってきてしばらくはきちんと施錠していたけど、本当にめんどくさくて気が向かなかった。
 部屋の鍵だけじゃなくすべてをきちんとしめない。バッグの口とか、ポーチの口とかもそうだ。半開きとか、ちょこっとあけとくのが好きで、くせになっていて、そのせいでポーチの中がこぼれてバッグ内部や床がぐちゃぐちゃになることが多い。片付けも苦手でつねに本当に部屋が汚い。

 魚サインの支配星は、伝統的占星術では木星、モダンな占星術では海王星である。
 木星の象意は拡大、拡散。海王星の象意は、人智を超えたイマジネーションや境界線の破壊、原初の混沌である。である。木星の上位互換のような惑星が海王星であり、両方ともとにかくどこまでも拡がって拡がって、収拾もつかなくなる作用を持つ。

 もう一回言う。本当に部屋が汚い。部屋もテーブルの上もカバンのなかもゴチャゴチャだ。自分に甘いし、他人に甘い。境界線があいまいか、無い。他人の不幸話を聞いてすぐ我が身にひきつけて泣いてしまう。

 思えば両親もなんとなくそういうところがあった。二人とも片付けが大の苦手で下手だ。ソファには母の脱ぎ捨てた服がつみあがっていたので、友達を遊びに招くとき母はそこに大きくひろげたストールをかぶせて隠していた。父はサボテンのマイブームが来たとき大量に集めまくったけど、飽きたらほったらかしで、私が水やりをやらされていた。2階建ての一戸建てのうち1階部分は生活空間で、2階の部屋はすべて何かの荷物の入った段ボールにうめつくされ、私室をあたえられる年齢になった私は段ボールの中にベッドだけ設置されて寝ていた。
 母が大そうじをしているところを見たことがない。

 真夜中生まれの私の太陽は魚座のIC近くにあり、オポジションのMCは乙女サインである。
 MCおよび10ハウスは母親をあらわすので、それは「母親が本人に期待する人物像」ないし「母親にこう見られたかった姿」をあらわすらしい。
 乙女サインの象意には、召使い、巫女、下女もふくまれる。
 そう…前々回書いたように、母は、家族らは、私を下女としてあつかった。多くの女性が同じ目にあっているだろう。
 コピーロボットを起動させたのび太は、もうひとりの自分に面倒事をすべておしつける。私は母のコピーロボットだった。だから私が精神障害でダウンしたときも、その話をするときはいつも急につんぼになったのだろう、私へというより、自分自身への解釈違いだから。
 
 母からの扱いがわかっていたからそれに反抗するようにことさらに野蛮人のようにだらしなく粗野にふるまっていた部分があったのかもしれない。ずっとずっと、乙女サインから逃げていたと思う。

 しかし、私もう36歳です。もう親がああだからとか何だとか言っていたら、物笑いの種になる年だ。

 魚サインが境界線の破壊や融解をつかさどるなら、対向サインの乙女サインは、物事にきっちりと線引きし、鍵をかける。物事を解剖して、臓器をひとつひとつ取り出して観察し、名前をつけ、けしていっしょくたにしない。精巧さ、精密さをよしとする。だから、印象派画家の大家たちに、乙女座はひとりとして存在しない。
 まず人間関係からはじめた。他人に同情することをやめ、他人のために涙を流さないようにした。あなたのためを思って…といった行動は、だいたいにおいて、自分のためであり、利己的である。人にやたらとものをあげるのもやめた。当然喜ぶだろう、という見通しのなかに、自他の融解がひそんでいる。知り合いがつらそうに、悲しそうにしているとき、スルーするのは今までならずいぶん心が痛んだ。自分が人非人になってしまうような気がした。しかし、その人がどうしようとも、どうなろうとも、全部私のせいではない。
 合わない人とむりに付き合うのもやめた。自分の心が狭いから、合わないのだろうかと思って自分を責めており、寛容にならないと! と思っていた。しかし、際限のない寛容さは、ただ人に甘いだけの人だ。ひいては、人のいやな部分と対峙するのを避けている、自分に甘い人物だろう。
 この、人に甘い(イコール自分に甘い)ことには、人生を通して、ずいぶん苦しめられた。自分を殴りつけた相手にすら同情してしまうような甘さがあった。はっきり言わざるをえないことを言わないから、なんとなく押しに弱そうな雰囲気が出ていて、それでなめられるし、つけこまれる。何度も何度も、やさしさ(でなく、甘さ)につけこまれた。私が本当に必要な徳は寛容さではなく、厳格さだった。ふたつのバランスが肝要だったのだ。私がやさしさだと思っていたのは、人と向き合うことへの怠慢であり、だらしなさだった。
 私は、外界と自分のさかいめも持たないどろどろに溶けたスライムだった。

 友達や、知り合いたちに、心理的に一線をひく。このことで、ひんぱんに連絡をとりあうような仲のいい友達は格段に減った。しかし、とってもすがすがしい。人にかこまれていたころの私はずっとすべてが不安でひとりぼっちのような気分だったけど、今は逆につながっている気がする。自分自身とだろう。自分自身とつながっていれば、孤独感は生まれないのではないか。

 部屋のそうじを定期的にするのはもちろん、整理整頓も心がけている。狭い部屋なので本当に大変なことだが…。片付けの基本、よく使うものは手前にしまって、そうでないものは奥にしまうということさえ、実践しはじめたのはごく最近だ。

 安い古着をなんでもかんでも買って着こなしてしまう自分が好きだったが、いまは買うものを最小限におさえている。今後10年20年着られるかを考えて。(これは太陽がプログレスで牡牛に入ったことも影響があるだろう)
 そのぶん今までおっくうだった服の手入れは頑張っている。ホームクリーニングとか、毛玉取りもやって、あと、スチームアイロンも買った。母は服をたくさん買うので、クリーニングに出したこともないと思う。
 でも、脱いだものをハンガーにかけたりたたんでしまったりって本当に大変なことだ。精神疾患でダウンしてた頃よりはぜんぜん出来るようになって助かった。
 
 大きなバッグが好きだった。なんでもかんでも、「必要になるかもしれないし」と、バンドエイドやら薬やら放り込んでいつも持ち歩いていた。思いきって小さいバッグを買ったら、案外それらはなくても大丈夫だった。本や日記帳などを持たなくてはいけないときも、バッグインバッグを使って、何がどこにあるか一目でわかるようにして整理した。

 この日記をつける習慣も、乙女サイン的かもしれない。日記は日々の整理整頓だ。手書きで書いて、Instagramにアップする形式のは、去年11月にはじめたから、もうすぐ1年になる。できるだけ続けていきたい。スケジュール帳も毎年最初しか使えてなかったが、思考の整理として活用したい。

 断る勇気が身についた。
 なんでもかんでも、そうなんですね、そういうのもまあありですよね、とふぬけた笑顔で頷いていたけど、思いきって、「どういう意味ですか、私はそうはおもわないのですが」と、言ってみた。
 友人に、「すみませんが、あなたの考えは、私とまったくあいません」と言ってみた。生まれ変わらないと無理だろうと思うくらいに私にとって勇気がいったことだ。そんなことを言ったら誰からも愛されず見離されて野垂れ死ぬ運命をたどるって思ってた。しかし、私は一度の人生のなかで、生まれ変わることができた。
 機能不全家族で育った子どもは、いつも親や大人の顔色をうかがってサバイブしてきたから、言いたいことを小出しにできず、不満をためては爆発し、ある日突然キレたり、失踪するように仕事をやめてしまいがちなのだと聞いて、なるほどなと思った。

 総論として、太陽サインは自己実現の方向性として人間はほっといてもそこを目指すので、180度逆の対向サインを目指すと人格のバランスが取れ、陰陽の合一に近づき、全体性実現のカギになると思う。
 なので、私の場合は魚と乙女だったけど、牡羊⇔天秤、牡牛⇔蠍、双子⇔射手、蟹⇔山羊、獅子⇔水瓶にも同じことが言える。

 とにかく、整理魔になってみたい。それがいまのところ私の夢です。
 悲しいニュースが流れてくる。でも強く、「私には関係ない」と思う。ほっとする。やっと心にカギをかけて、自分に流れ込んでくるさまざまなものから、身を守るすべを獲得したと思う。毎日が本当にたのしい。私は私だけの敬虔な召使いであり、誰にも仕えていない。
 でも乙女サイン的なことをきわめたら、今度はもう一回魚サイン的なことに戻ってくるのだろう。乙女は客観で魚は主観であるが、その二つは、本当には同じものだ。その二つの結婚式の日が楽しみでならない。