宇宙の産み落とした私生児

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この融合願望の正体は何か/"距離梨"、マザコン、聖母の心理分析

 もくじ
 1 はじめに/”梨”との遭遇
 2 融合願望とは何か
 3 帰属願望と化した融合願望
 4 融合願望はなぜあるのか
 5 おわりに


1 はじめに/”梨”との遭遇

 あなたは今まで、こんな人に出会ったことはないだろうか。

 知り合ったばかりの彼/彼女は、大変に気さくで開けっ広げで、やさしくて面白くて、とてもあなたにフレンドリーに接してくれる。見開かれてキラキラと輝く瞳がまるで子供のように純粋だ。ものの数分でたちまち意気投合し、相手もまるでソウルメイトに出会ったように喜んでくれる。
 彼/彼女はまだよく知りもしないあなたに対して、何かと賛辞の言葉を惜しまない。あなたのセンスや知性を誉められて、悪い気はしないので、時にそれが歯の浮くようなそらぞらしい言葉でも、または体つきのことにまで及び、その失礼すれすれのフランクすぎる態度に驚きを覚えても、聞き流すことにする。
 褒め言葉を並べ立てるだけではなく、何かと自分と友人付き合いするメリットを示してくれる。たとえば異様なほど気前がよく、同性だとか、同い年かそれより下なのに食事はすべておごってくれたり、クリスマスでもないのにプレゼントがやたら多かったりする。それも、かなり高額な。あるいは、お金持ちであることや、人脈の広さ、「近々大きなプロジェクトの仕事を発注したい」などと、とにかく、この人と繋がっていれば得があると感じさせるような、あらゆるメリットをうまいこと匂わせる。勘がよければ、少し話の盛り癖があるとピンと来る。あるいは実はただの虚言癖だったりするが、ともかくあなたはトクしている、またはしそうなのが確かなので、多少の瑕瑾は目をつぶることにする。
 ほぼ初対面か、もしくはSNSで繋がっているだけなのに、複雑な家庭事情を開陳してきたり、深刻な打ち明け話をされるのも、彼/彼女の率直な性格ゆえの個性なのだろう。行動やリアクションがどこか常識とはズレているのも、まぁ、よくあることだと己に言い聞かせる。
 あなたに影響を受けていることも隠そうとせず、言動や持ち物や髪型をそっくりコピーしてきても、それほど憧れられているからだと自分を納得させる。恋愛ではなく友情のはずだが、それにしてはあまりにも熱烈すぎる入れあげ方な気がする。そう、これはまるでハーレクインなみの熱愛だ。
 ほどなくして、連絡魔か、それほどでもないにしろ、コンタクトがとても多いことに気づく。LINEやダイレクトメッセージで、連日のように用件もなしに話しかけてきたり、オープンなSNS上なら、リプライをどんどんつけてくる。出会ったばかりなのに、完全に気を許していて、警戒心がまるでない。それほど相手にとっては自分との出会いが運命的だったのだろうか? それだけでなく、だんだん愚痴が多くなる。反応に困るような重い話だったり、建設的なアドバイスを返してものれんに腕押しだったりして、あなたの違和感は大きくなる。相手の愚痴は、要するに、アナタは悪くない、と言ってほしいだけのもので、試しにそういう反応を返せばとても満足そうにする。
 だんだん明らかにべったりとした甘えがひどくなり、あなたに気づかいをしなくなる。会ったばかりの頃は過剰なほど気を使ってきたはずだが。気が向いたときだけのプレゼントの内容もぞんざいになる。食べかけて封を切ったお菓子、大掃除で出てきた使いかけの文房具、ビンゴ大会で当たったいらないタコ焼き器。
 ここまでくると、「自分は自己肯定感が低い、低い」と念を押すように繰り返してくるのも、だから人は自分に優しくするべきだ、批判をしないべきだという脅迫めいた先制攻撃のようにあなたが思っても、全くおかしくない。

 あなたが爆発して関係を切ることもあっただろう。しかしそうしなくても、相手は突然! そう、突然にして、姿を消す。それも、どうにも察しのつかない、不明の理由で。きのうまで普通に会話を交わしていたのに、けさ起きたらLINEブロックされているというほど突如の出来事であり、まるで彼/彼女という人間が最初からいなかったかのように、痕跡も残さず、あなたを切る。
 なにか悪いことをしたんだろうか? こんな、飽きたおもちゃのスイッチを切ってポイ捨てするみたいな、非情なカットアウトをするだけの何かを? 考えてもたいてい無駄だ。たいてい、驚くほどささいなことである。たとえば、あなたが彼/彼女の意見について、「部分的に、同意できるところも、できないところもある」といった態度を表明した次の瞬間にそれは起こったのかもしれない。あるいは、もっともっと、とんでもないほど些細で、毎日必ず湯船につかるのが習慣の彼/彼女に対して、「私はシャワーですませてる」と言ったときトリガーが引かれた、そんなことすらある。
 あなたはその後の彼/彼女の様子を何かのはずみで知るかもしれない。なんと、というべきか、やはり、というべきか、あの人は、また別の”ソウルメイト”に出会って、べったりご執心のご様子だ。しかし、その蜜月も長くもないと、あなたは分かっている。同じことの繰り返しになるだろう、と。
 彼/彼女は、まるで家をつぎつぎ乗り換えるヤドカリか、別の生き物に寄生していないと生きられない寄生虫のように見える。
 あるいは、確かに肉体を持っているはずなのに、それを持ち合わせず、生身の人間にとりつかないと存在できない浮遊霊のようでもある。個性は強烈なはずだが、あまりに他人本位すぎ、依存的すぎて、その人自身はこの世にいないかのような錯覚すら受ける。
 ほっとひと安心するのも、つかの間だ。まさしく、その人物はほうぼうで同じことを繰り返し、インスタント・ソウルメイトを乗り換えてばかりで、常に孤独である。だから、さみしさのせいなのだろう、突如ドロンと消えたのと同じくらいの唐突さで、なにも無かったかのように平然とあなたに接してくる。「久しぶり」の挨拶すらないかもしれない。それはあたかも、おもちゃのスイッチを入れ直すがごとくだ。あなたが学習しないタイプで、いい気分になって、反省しているのかななどと都合のよい解釈で歓迎したら、やはりまた結果は言わずもがなとなる。

2 融合願望とは何か

 このような「浮遊霊」たちは、インターネットスラングで、主に女性たちの間でよく”距離梨”、”梨””梨子”などと呼ばれる。むろん「距離感が無い」が転じた言い方である。ためしにこういう言葉でGoogle検索するだけで、膨大な量の被害体験の書き込みがヒットする。(なお、  書き込み主らは、それが「被害」であることを強調したがるが、いくつも危険サインがあったり違和感を抱くきっかけがあったのに適切に突き放すことができなかった時点で、懐かれた方も十分”梨”の素質ありだろう。人間関係は鏡のようなものだ)
 
 では、”梨”たちはなぜこのような短絡的な対人トラブルを繰り返すのだろうか。それはこのブログで何度も登場している心理的投影(投射)の働きがある。
 ”梨”たちが見ているのはあなたではなく、この世に存在せず当該人物の心のなかにだけある理想像の投影である。

 その理想像とは100%自分と気が合う人間である。自分が何を言っても何をやっても許してくれて、すべてを肯定してくれて、お互いにすべてを知っていて秘密がなく、誤解やすれちがいはなく、そして自分の予想や期待を決して裏切らない。

 だから、理想像と少しでも食い違ったり、期待外の行動を取られるだけで、”熱愛”は跡形もなく冷める。「あなたのその考え方は違うと思う」というようにはっきり他人と対峙するほど成熟しているわけもないので、ケムリのようにドロンで終わりだ。”梨”の人間関係には、全肯定か全否定の2種類しかないのである。
 この理想像を端的に言い換えれば”母なるもの”、”聖母”だろう。自分と他人の区別がなく絶対に自分が否定されない関係は、まるで母と胎児のそれだ。他人から必要とされる戦略として、”梨”自身が、誰をも否定しない聖母のような社会的人格を演じていることもしばしばだが、しかしその実態は、子宮を探しもとめるむきだしの渇いた胎児である。
 実際に”梨”は母親との関係が悪いことを隠さないので、一見して考えれば「母親との関係が満たされなかったので、他人に母親を求めている」という結論に至るのはたやすい。実際、「毒親持ちは距離梨が多いから、近寄らないようにしている」と言っている人を見たこともある。

 しかし、「自分よりも大きな存在と融合したい」といった願望は、人間存在に普遍的なものだと考える。
 卑近な例でいうと、憧れのスターと同じ髪型や持ち物が爆発的なブームとなる。ここで大衆に働いているのは理想の人物との同一化欲求だが、これも融合の願望と根源は同じものだろう。同一化欲求が普遍的でなければ、そもそもスターや、プロスポーツ選手、インフルエンサーといった仕事は成り立たないだろう。

 思いどおりにならない彼女や妻や子を殴る男も、自分の予想を裏切らない、一心同体であるのが本来の相手なのに現実はそうではないから、暴力という行動を取る。
 依存と支配は、どちらも融合願望の発露といった点で、裏返しの同じものである。
 
 この記事では、自己存在の肯定を求める願望や、同一化欲求もひっくるめて、融合願望と呼ぶ。

‥蛇足だが、(自分を否定せず全肯定する)母なるものという概念はたまたま母という語が入っているが、実際の母親とは、ほぼ関係ない。母とは子を全肯定するべきものだ、という思い込みによって必要以上に「毒母」に憎悪が向けられている傾向が昨今とくにある。このような憎悪とその裏返しの執着は、融合願望がマザコンに姿を変えたありふれた例だろう。‥


 3 帰属願望化する融合願望

 話を戻す。では、融合願望が特別なものでないのなら、”梨”とそうでない人間の違いとは何だろう。

 ここで、「自分より大きなものと融合したい」という願望をもう一度考える。融合したらどうなるのか。得られるのは安心感である。自分の存在が肯定され、この社会に存在してもいいと思えるような。つまりこの融合願望の矛先は、社会に向けられてもいる。
 ここ10年ほどでインターネット上で爆発的な流行語になった「承認欲求」も、なぜ社会/大衆に承認されたいか、それは社会/大衆という大きな共同体に迎え入れられ、融合し、自己を肯定されたいから以外の理由はなく、やはりここでも、融合願望が働いている。
 ”梨”には全肯定か全否定の2種類しかないということは既に記したが、そうでない人は、部分肯定、部分否定を知っている。人や物に対して、ここは良い、ここは悪いと切り分けた判断をする。そのバランスで付き合い方を吟味するのが誰もが無意識にやっている自然な思考プロセスであろう。
 判断の主体が人であるばかりでなく、共同体それ自体も人に対して行っている。最小単位だと家庭。親族。町内会。職場。趣味のサークル。
 そこでは誰もが完璧に瑕瑾のない人間ではいられず、たいてい、ここは良い、ここは悪いと少しずつ違った評価をされている。家庭では優しいけど少し頼りないパパが職場ではバリバリとリーダーシップを発揮していて、頼れるけどちょっとけむたがられていたりする。
 そうした様々な大小の共同体から、(「ゼルダの伝説」のハートのかけらのように)少しずつ「部分肯定のかけら」を集めて人は社会に存在している。それで満足している人間は、たった一人の相手に全肯定を求めずにすむ。1人にホールケーキをまるまる要求せずとも、6人からケーキを1ピースずつもらえばいいのである。

 つまりここでは、まず「自分より大きな存在」として疑似人格化された共同体群があり、それらへの帰属願望としてトランスフォームした融合願望が、さらに細かく分散化されて向かっている。

 帰属願望というものが、対象が共同体に向けられたバージョンの融合願望と考えると、親との関係が良くない人はまず「生まれ育ったファミリーの一員」という共同体への帰属意識を感じることを拒絶している、あるいはせざるを得ない状態なので、まず分散先がひとつ減らされている。もしも他のどの共同体にも居場所がなければそのエネルギーが一点集中でレーザーのように特定個人に向けられ、果たして”梨”の誕生になるだろう。そう考えると「家庭環境に恵まれないと、距離感がおかしくなる」といった宿命的で不可逆的なものではまったくなく、あとからいくらでも解決できる話となるし、現実にそうであろう。

 また「毒親だ」と名指されている親の具体的な例をみると、親自身がどこにも帰属意識を感じる居場所がなく、やはり融合願望がわが子に一点集中し、過密着を引き起こしていることがほとんどといっていいほど多い。

 人間の自意識も人格的背景も独立したものであり、一対一の関係性において他人の融合願望をまるごと受け止められる人間は存在しないので、精神的よりどころを確保しようと思ったとき、融合願望を分散化するという方法はかなり有効と思われる。ただ、宗教の教祖や導師といった立場の人間なら、まるごと受け止めることも可能かもしれない。

4 融合願望はなぜあるのか

 それにしても、なぜこんなものがあるのだろう。
 他人と自分は別物であることなんて、一目瞭然、わかりきっていることだと感じる。実際に、自分の肉体は自分のもので、思いどおりになり、他者の体を動かすことなどできない。顔が違う。声が違う。別々の肉体であるのは、明々白々なはずだ。

 なのに「自他の境界を引け! 自他の区別をつけろ!」という決まり文句が、毎日のようにこの世界には飛び交っている。それがあいまいな人間があまりに多いからだ。
 しかし、それだけのことが、一体なぜむずかしいのか?

 呪文のように、自他の区別をつけよう、自他の区別をつけようと自分に言い聞かせていた私にとって、ユング的世界観に出会ったときは衝撃だった。そこでは宇宙が、すべてはひとつであることを人間に気づかせんがために、偶然とは思えないほど奇妙なシンクロニシティ現象を引き起こしているのである!

 あるいは、仏教や禅的思想の主客合一の世界観もそうだ。そこでは、自分と自分以外のものの区別はない。究極の自他融解の世界である。歩きながら、私は目にうつるものを見て不思議な、神聖な気分になった。遠くに見える山々も、足元のコンクリートブロックも、すべてが私自身であり、同時に、私はどこにもいない。途方もない考えの気がした。

 こう考えることは出来ないだろうか? すべては、もともとひとつなのである。自他の区別など、実ははじめにはなかったのである。しかし人間に目覚めた自意識、近代的自我が、「個人」を誕生させた。英語で個人を意味するindividualという語は、それ以上分割できない、というラテン語が語源だ。社会を構成する最小単位が個人である。
 しかし、分割されすぎた自意識は、人類に内省と神経症の時代をもたらした。人に囲まれている。なのに孤独で身を引き裂かれそうになる。愛する人がそばにいる。なのに自分は誰からも理解されないと感じる。名前がある。でも、誰でもないように感じる。家にいる。なのに、帰っていく家がないと感じる。
 それはまるで、祖国を喪い、帰る場所がなくなった、ユダヤ人のディアスポラ(離散)の悲劇的歴史のようだ。

 大小の共同体への帰属願望として、融合願望を昇華させようとするとき、最小の共同体が家族ならば、最大のものは、宇宙それ自体だろう。家族、会社、趣味のサークル、そういったものが案外壊れやすくはかないものであることを考えると、融合願望のはけぐちを宇宙に向けるというのは、リスクヘッジとして合理的なのかもしれない(なにしろ、宇宙は少なくとも熱的死を迎えるまでのしばらくの間はなくなりはない)。その手助けをしてくれるものとして占星術というものがあるのだろう。

 5 おわりに

 長い文章を読んでくれてありがとうございます。

 この記事はこれで終わりですが、冒頭に掲げた”距離梨”たちの具体的行動の例の数々は、私がいままでの人生で遭遇した百万人ほどの人物とかつての私自身のそれをミックスさせたものであり、特定個人のみを想定したものでも、中傷するものでもないことは明確にお断りしておきます。